〇ディスコ三昧で漏れた話など~ピエール・ジョベール評伝 | 吉岡正晴のソウル・サーチン

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〇ディスコ三昧で漏れた話など~ピエール・ジョベール評伝

 

【Pierre Jaubert : Talk Behind The Scene At Disco Zanmai】

 

こぼれ話。

 

まさに、こぼれ話。『ディスコ三昧』は長時間生放送なのだが、そこでかかる曲について、いろいろと調べたのだが、結局オンエアで話せなかったものもたくさんある。

 

ちらっと、ツイートしたが、Tグルーヴ選曲でかかったミッシェルの「マジック・ラヴ」のプロデューサー、ピエール・ジョベールの話は特に紹介したかった人物。オンエアでは時間もなかったので、こちらで簡単にご紹介しよう。

 

評伝。

 

ピエール・ジョベールは1929年6月27日フランス北部のヴィラーヴィル生まれ。6人兄弟の4番目。第二次戦争中は、家族であちこちに転々としていた。その頃ハーモニカにふれ、一時期はハーモニカ奏者になる夢も持ち、ハーモニカ奏者としては、ヨーロッパやアメリカでも演奏旅行をしたほどだった。しかし、彼はトゥーツ・シールマンスと出会い、とてもこのレヴェルには到達しないと思い、演奏家としての夢は諦め、音楽業界の裏方で仕事をしようとする。

 

1950年代にはシカゴ、デトロイトなどに住み、この時期に多くのR&Bやブラック・ミュージックに触れた。シカゴ時代はレコード店に出入りしたり、チェスのレコーディング・セッションを見学するようにもなった。

 

その後、デトロイトで一旗あげようとしていたベリー・ゴーディ―・ジュニアと出会い意気投合。ゴーディーはジョベールがフランス語を話せることから、モータウン作品でフランス語にできるものはあるかなどの相談をしたという。そんな流れでジョベールは、スティーヴィー・ワンダーの「キャッスル・イン・ザ・サンド」のフランス語盤録音の手伝いをする。

 

1965年、フランスにもどったジョベールは、パリで音楽出版などの会社で仕事をするようになり、1966年から同地で毎年開かれるMIDEM(国際音楽市)に参加。2016年には、MIDEM参加50周年をMIDEM主催者から表彰されるまでになった。

 

アメリカとフランスを行き来するようになったジョベールは1960年代後半サンフランシスコを訪れたときに、当時無名だったジョン・フォガティ―を見出し、彼のグループの演奏を見て、そのグループをファンタジー・レコードに紹介。それがクリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァルだった。

 

ジョベール自身がブラック・ミュージックが好きなこともあり、新人のそうしたバンド、シンガーを発見、育てることにも熱心だった。

 

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アフロ・バンド。

 

1973年、パリで彼が見つけたバンドがアフロ・ロック・バンドのラファイエットというバンドだった。これは今でいうアフロ・ジャズ、アフロ・ファンクのようなバンドで、アフリカ音楽と踊れる要素のジャズ、ディスコをあわせたような音楽をやるバンドだった。

 

このグループはのちにアイスIceと名前を変え、『フリスコ・ディスコ』というアルバムを1975年の秋に出す。

 

実は僕はこのアイスの『フリスコ・ディスコ』のアルバムのライナーノーツを頼まれて執筆するのだが、それが1975年12月のことだった。この時は、アフロ・ジャズとか何もわからなかった。しかし、今から振り返ると、彼らは1990年代になってからイギリスを中心に大きな流れとなるレア・グルーヴ、ジャズ・ファンクの源流、ルーツとも呼べるようなバンドだった。

 

そして、彼らの作品はなんと、のちにヒップホップ・アーティストのジェイZ、アイス・キューブ、レックス&エフェクト、パブリック・エナミーらによって発掘、サンプリングされ、再注目を集めることになる。

 

このアイスのメンバーは、フランスをベースに活躍していたが、スタジオ・ミュージシャンとして、オンエアでもTグルーヴが語っていたが、なんと、ディスコ・ヒット「ソウル・フランケンシュタイン」を出すキャプテン・ダックスや、同じくクリプシー&カンパニーなどの名前でレコードを出す。

 

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カフェ。

 

1975年頃、彼はフランス・パリのカフェで隣に座っている女の子の声がいいというので声をかけ、レコーディングに誘う。それが、シャンタル・カーティスという子だった。いわば、カフェでナンパしたわけだ。

 

ところが、ちょうどその頃彼女がつきあっていたボーイフレンドにドラッグを教わり、それが原因で彼女は逮捕され、刑務所に入ってしまうことになる。しかし、レコーディングは済ませていたので、ジョベールは彼女の名前を変えて、これをリリースすることにした。その新しい名前がミッシェルで、作品が「マジック・ラヴ」というわけだ。1977年にリリースされる。

 

これはトム・モールトンがリミックスをして、アメリカのディスコで瞬く間に大ヒット。この作品はフィラデルフィアでリミックスと加音がなされている。一足先に、パリからフィラデルフィアに出向いたジャック・モラリ(リッチー・ファミリー、ヴィレッジ・ピープル)につぐいわばフィリーのフレンチ・コネクションだった。

 

その後、彼女は晴れて外に出て、1979年、シャンタル・カーティス名義でアルバムを出す。

 

ところが、彼女とボーイフレンドのつながりは切れずに、なんとその彼氏がドラッグをめぐってギャングとトラブルになり、二人がいるところにギャングが来て発砲、彼を狙った銃弾が間違って彼女にあたり、彼女が死去してしまう。彼女たちが旅行に行っていたイスラエルでの出来事だそうだ。

 

この他にも、フランスでは映画作品の音楽もいくつか担当していた。

 

その後も、ジョベールはフランスの音楽業界をベースに活躍していたが、なんと昨年(2017年)8月8日、心臓発作のために死去した。88歳だった。

 

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実は、ジョベールとは1980年代から手紙、ファックス、最近はメールでのやりとりもあった人物で、昨年亡くなっていたことはまったく知らなかった。もう1年以上前に亡くなっていたわけだ。今回の「三昧」でジョベールのことを調べていて、彼が亡くなっていたことを知ってびっくりしたというわけだ。

 

ご冥福をお祈りします。

 

 

ENT>Jaubert, Pierre (June 27, 1929 – August 8, 2017 – 88 years old)