○スティーヴィー・ワンダー・ストーリー~『ビッグ・スペシャル』でスティーヴィー特集今日から | 吉岡正晴のソウル・サーチン

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○ スティーヴィー・ワンダー・ストーリー~『ビッグ・スペシャル』でスティーヴィー特集今日から

【”Big Special” Featuring Stevie Wonder】

大特集。

毎回、一人のアーティスト、ひとつのテーマにスポットをあて、4日間毎日2時間半から3時間にわたって特集する深夜の本格派音楽番組『ビッグ・スペシャル』(東京FM系列ネット)。今夜から4夜連続でスティーヴィー・ワンダーの特集をする。最終日2月9日(木曜深夜、10日午前1時から)には、吉岡正晴も生出演してスティーヴィー・ワンダーについて話をする。今年はスティーヴィー・ワンダーがデビューしてちょうど50周年。さまざまなスティーヴィー・ワンダーの話題、トピックを集めて大特集をする。

本ブログでは、この『ビッグ・スペシャル』と連動して、「スティーヴィー・ワンダー」特集をお送りする。番組では初日と2日目で大体主なヒットをかけ、3日目で5大アルバムを特集、4日目でスティーヴィーの世界と題して、さまざまなスティーヴィー関連、プロデュース、楽曲提供作品などをお送りする。

ブログでは、月曜・火曜用の「スティーヴィー・ワンダー物語(パート1)」。これで、基本的なスティーヴィーをご紹介する。

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『ビッグ・スペシャル』は東京FMをキーステーションに全国のFM局で放送される生番組。月曜深夜25時から28時(深夜1時から4時)まで。

番組宛のメールはこちら。

直接メールを送るフォームはこちら
http://www6.jfn.co.jp/mailforms/index/94

『ビッグ・スペシャル~スティーヴィー・ワンダー特集』(東京FM・JFN系列全国ネット)。

2012年2月7日(火)午前1時~4時生放送(6日月曜深夜25時~28時)、『ビッグ・スペシャル~スティーヴィー・ワンダー特集』(東京FM・JFN系列全国ネット)。

関東地区は、関東のラジコで。その他の地区は各地区のラジコでも聞けます。
関東用のラジコ↓
http://radiko.jp/player/player.html#FMT

この『ビッグ・スペシャル』は、毎週月曜深夜25時(火曜午前1時~4時)から木曜深夜(金曜午前)まで生放送しているもので30以上の局でネットされる。(番組ホームページでは35局のネット局名が出ている)
http://www.fmsounds.co.jp/production/program_detail.php?b=1&p=62&PHPSESSID=vvnqkbcm

当日は生放送ですので、リスナーからのメール、ツイッターでのメッセージなども受け付けます。

ハッシュ・タグは、次のようなものがあります。

ビッグ・スペシャル #bigsp 東京FM #tfm

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■スティーヴィー・ワンダー・ストーリー

ジョデシーが「レイトリー」をカヴァーし、インコグニートが「ドント・ユー・ウォーリー・アバウト・ア・シング(邦題:くよくよするな)」をカヴァーする。70年代のサウンドが再認識される中で、超巨星スティーヴィー・ワンダーは今年でデビュー50周年。これまでの歩みを簡単に振り返ってみよう。

ACT 1.、生まれながらの盲目

盲目。

スティーヴィー・ワンダーは本名、スティーヴランド・モリス・ジャドキンスといい、1950年5月13日、アメリカ北部ミシガン州サギノウという小さな街にうまれた。ただしスティーヴィー自身はこの父方のジャドキンス姓を使うことを好まない。デトロイトから北に約90マイル行ったところにある小さな街だ。彼がこの世に生を受けたその日、サギノウはどんよりと曇っていた。そして、その暗雲立ち込める天候は生まれてくる赤ん坊の人生にも暗い影を落した。母親のルーラにとっては、1ヶ月以上もの早産だったので、生まれてきた赤ん坊は未熟児だった。そのため彼は特別の保育器に入れられる。彼は少しばかり長い間そのなかに入れられ、大量の酸素をすってしまったために、視力
を失ってしまったのである。

父親は家を出ていき、典型的なアメリカの母子家庭に育てられたこの子はスティーヴィーと呼ばれ、3歳のころに一家で母親の実家があるデトロイトに移る。そして、この頃から教会に行きだし、ラジオをよく聞くようになった。ハーモニカを始め楽器もすぐにいろいろマスターするようになり、彼にとっては
音楽は最良の友となった。

1959年、彼は近所の友達ジョン・グローバーと二人組「スティーヴ&ジョン」を結成、これがすぐに近所で評判になりはじめ、そのジョンを通して従兄弟でミラクルズのロニー・ホワイトに紹介される。ホワイトはこの盲目の天才少年スティーヴィーを見て驚き、すぐにモータウンのソングライターの一人ブライアン・ホランドに知らせ、彼がモータウン社長のベリー・ゴーディーに見せ、すぐにモータウンと契約することになった。1961年、彼が11歳の時であった。ベリー・ゴーディーは、このときのことを「彼の声にはノック・アウトされなかったがハーモニカにノック・アウトされた」と語る。

スティーヴィーは週休2ドル50セントで5年間の専属契約を結び、まもなく彼は「マザー・サンキュー」という曲を初レコーディング。彼は、この初レコーディングの時のことをよく覚えている。スティーヴィーは振り返る。「何もかもあまりにうれしくて、特に母には感謝の気持ちが一杯で、泣いてしまったんだ」

このほかにもいくつかのスタンダード曲をレコーディングするが、いずれも日の目を見ていない。モータウンも彼をどう売り出していいかつかみ切れていなかったのだ。初録音から一年余。彼のモータウンからのデビュー・シングルがやっと決まった。「アイ・コール・イット・プリティ・ミュージック」というタイトルで、これは62年8月に発売されるが不発。さらに2枚のシングルが出るがいずれもヒットはしなかった。

一方、この頃彼は既にモータウンのアーティストをパッケージにした「モータウン・レヴュー」の一員として全米ツアーをはじめており、そのライヴのなかでやっていた一曲が非常に評判が良かった。それが「フィンガーティップス」という曲だった。ベリー・ゴーディーはこのライヴをシングルで発売するというアイデアを試した。シングル「フィンガーティップス」は63年7月に発売されるや、あっという間にヒット・チャートをかけのぼり全米一位になり、スティーヴィーは一躍「13才の天才少年」と大騒ぎになったのである。
センセーショナルなデビューを果たし、だれもが彼を「第二のレイ・チャールズ」ともてはやし、大スターになるだろうと信じたが、その後も数枚のシングルをだすが、大きなヒットはなく、一時期モータウンではスティーヴィーとの契約打ち切りという話まで持ち上がった。彼にとって、変声期もまた、しばらく低迷の原因になった。だが、変声期を終えると、モータウンのプロデューサー、ヘンリー・コスビーがいい作品を作り始め、コンスタントにヒットを出すようになる。66年のヒット「アップタイト」、「風に吹かれて」、「ア・プレイス・イン・ザ・サン(太陽のあたる場所)」等である。

そして67年になると彼は自分で曲作りをすることに興味を覚え始め、協力者を得ては盛んに自作曲を生み出すようになった。そんな一曲が「アイ・ウォズ・メイド・トゥ・ラブ・ハー(愛するあの娘に)」であり、これが全米2位を記録、彼はいよいよ単なるシンガーというだけでなくソングライターとしてもその才能を発揮するようになる。

ACT 2.、自我の芽ばえ

 自我。

ミュージシャンであるスティーヴィーにとって盲目であることは全くハンディにはならないかの様であった。逆に盲目であるだけに一つ一つの音に対する集中力がなみの人間よりもはるかに優れており、音感も素晴らしかった。

この頃のスティーヴィーの得意技に、コインをテーブルの上に落とし、その音でいくらのコインかを当てるというものがあった。彼は、ほとんど間違えることなく、コインの種類を言い当てた。

モータウンの60年代中頃から後期にかけては、出すレコードすべてをことごとくヒットさせていた時期であり、スティーヴィーもこれからその勢いにのろうとする時期であった。年令的に多感な十代を過ごし、多くの事に関心を寄せ始めた彼は大学では音楽理論等を学び、ミュージシャンとしても一回り大きく成長した。

69年はアメリカも揺れ、音楽界も社会情勢に影響を受け、モータウンもその大きな波に巻き込まれた。この時期は社会が激動し、音楽が変わり、そしてアーティスト自身も急激に変化し成長していく、そんな時期だった。スティーヴィーもそんななかでアーティストとして自我が芽ばえていった。それは、自分は会社に指図された曲を歌うのではなく、自分自身が歌いたい歌、自分の作った曲を歌いたい、という欲求であった。

そして、1970年、彼は遂にセルフ・プロデュースによってアルバム『サインド・シールド・アンド・デリヴァード(邦題、涙を届けて) 』を完成させる。さらに1971年の『ホエア・アイム・カミン・フロム(=私のルーツといった意味。邦題、青春の軌跡) 』を出し、彼はいよいよ自分の音楽「スティーヴィー・ワンダー・ミュージック」というものをクリエイトするようになった。

このアルバムは、同じくモータウンのシリータ・ライトの協力を仰ぎながら作ったが、二人はこのアルバムが発売される前、70年の9月に結婚している。この結婚は、長くは続かなかったが、以後もソングライターのパートナーとして、友人としての付き合いは続いている。

ところで、モータウンという大きな会社では、スティーヴィーが思ったような音楽を自由に作るのには難しい部分もあった。彼が他のアーティストのために曲を書いても、そのほとんどはボツになったりして、彼はその度に失望していった。

彼のレコードからの収入は、21歳になるまで信託基金に預けられていた。そして、モータウンとスティーヴィーの契約は、21歳の誕生日に切れることになっていた。

そのXデイの数カ月前から、スティーヴィーは次の契約更改はしないという考えを持っていた。思ったとおりに音楽が作れない、それが市場に出ない。クリエイティブな自由がない。様々な点において不満が爆発していた。

こうして、21歳の誕生日、1971年5月13日がやって来た。モータウンはそれまでの信託基金100万ドル(当時のレートで3億6千万円)を彼に渡し、スティーヴィーはそれを持って、ニューヨークに行き、スタジオにこもり、思う存分自分のやりたい音楽を作ることにしたのである。
シンセサイザーの専門家、ロバート・マーグレフとマルコム・セシルの協力を得て、彼が作り上げたアルバムはその名も『ミュージック・オブ・マイ・マインド(直訳=私の心にある音楽)(邦題:心の詩)』だった。
彼は翌年、いくつかのレコード会社と契約交渉をしたが、結局、いくつかの条件をつけて再びモータウンに戻る決意をした。そのいくつかの条件とは、自作のプロデュース権の獲得、自分の作品を管理する音楽出版社の設立などである。

スティーヴィーは、この「一旦モータウンを辞め、再びモータウンに戻ることを決意したのは、自分のキャリアの中でも最大の決断だった。」と語る。

(つづく)

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