注:この日記は,当時を思い出して書き綴っています。
自主避難の様子
鵜島地区には5つの集落がある。そのうち,改善センターのある稲荷地区の住民はここに避難しているが,他の4地区の様子は,どうだったのか。
当時は詳しいことは分からなかったのだが,あとから聞いたところによると,能登町に一番近い宗玄地区の住民は,わたしが車で連れてきたYさん以外は,宝立小中に避難していた。中鵜島地区の住民は,わたしが声をかけたKさん以外は地区の剣神社の建物の中などにいた。白山地区は,JUNという美容院の前の空き地にテントを立ててその中で夜を過ごしたという。
八万地区の住民は,市が指定した宝立小中学校に一番近いので,そこに避難したようだ。
2棟目の自主避難所
その白山地区の住民が,センターの隣にある旧鵜島保育所に避難することになった。旧鵜島保育所は,今年の奥能登国際芸術祭の作品会場として利用されており,きれいに掃除がなされている。
南京錠を開ける鍵はおそらく市役所にあるのだろうが,この状況でとりにいくわけにも行かず,無理矢理こじ開けることにした。
これで,自宅裏の公共施設・旧鵜島保育所と鵜島生活改善センターの2棟で,地域住民が避難することになった。
支援物資をとりにいく
「健民体育館まで行けば,支援物資が貰える」という話を市役所職員から聞いたので男性2人が受取に行ってくれた。お陰さまで,なんとか食をつなぐことができるようになった。
夜は,またまた食材を持ち寄ってバーベキュー。メインは,寒ブリの切り身とお肉。
うちの孫は,はじめて食べた「ブリの炙り」を気に入ってしまって,自宅の夕食を食べたあとも,またテントへ行ってブリを食べさせてもらっていた。
記念写真まで撮って,何をやっているんだか。
自宅での生活
ありがとう! GENKY
一方,帰宅できずにいる娘一家もだいぶん落ちついてきた。
朝,「松波のGENKYで生活用品が買える」と聞いて,わたしは娘婿と一緒に軽トラで行ってみた。
GENKYの店内は電気も来ていず真っ暗だ。その上,いろんな商品も散乱している。お客は,自分でおよその代金を計算して出入り口にあるカゴの中に現金を入れるという仕組みで店が開いていた。
わたしたちは暗がりの中をスマホの光で照らしながら,おむつや長持ちする食材などを中心に約1万円ほど購入した。真水はすでになかった。
こんな大雑把なこと(おそらく大損)をしてまでも,食品を提供してくれようとするGENKYの姿に本当に感謝した。二人くらい店員がいたのだが,感謝の言葉を言おうとすると,涙がでそうになるくらいの感情の高ぶりを感じた。このときほど,自分は被災者なのだと感じたことはない。本当にありがたい。
たまには行灯もいいもんだ
自宅での夕食には,行灯が登場。行灯の絵は孫に描いてもらった。この行灯はずっと前に大工さんからもらったものだ。紙が破れていたので,もう一度張り直して,絵をかいてもらったというわけ。
そうそう,家では,ずっとLPガスでご飯を炊いているので電気が来なくても大丈夫。カセットコンロもあって,料理はできるのである。
自宅から能登町(松波)にかけての被害
自宅から能登町へ行くのははじめて。やっぱり地震の被害はひどかった。
昨日,道の殆どを覆っていたお寺の山門は,撤去されていた。
宗玄酒造の裏の崖が崩れ落ちていた
恋路近くの田んぼにも津波が入ったようだ
恋路の岩も崩れていた
GENKYで買物をした後,サークル仲間のSさんやその家族が経営しているガソリンスタンドがどういう状態かを確認するために,さらに奥へと進んでみた。
Sさん宅はちゃんと建っていた。玄関を開けて呼んでみたが,返事はない。無事避難したんだろうと一安心。
今回の地震。わたしの自宅の周りには倒壊した家屋はない。しかし,南北,どちら向きにでも300mも進めば,倒壊家屋が見えてくる。全くの偶然で,家が建っていることを思うとなんだか複雑な気分になる。
そして,少しでも自主避難所に避難している人たちのために行動しなくちゃと思う。