今,昔の『広報「すず」』を調べている。
原発誘致がいつ頃から珠洲市議会で取り上げられていたのかを調べるため,あるいは,見附島がどれくらいの大きさだったのかを調べるため…などなど…の目的で…ある。
1ページずつ縮刷版をめくっていると,思わぬ記事に出会うことがある。今日紹介するのは,「昭和45年(1970年)11月号」の市議会報告の一幕。わたしは,小学5年生なので,市議会でなにをやっているかなんて,どうでもよい年齢だった。
空港用地は鉢ヶ崎海岸
県営「能登空港」の建設問題は輸送力を強化するための手段として持ちあがりました。
つまり,輸送時間を短縮して企業誘致をはかるとともに,佐渡,新潟,富山,小松を結ぶローカル観光環状路線を切りひらいて,観光ルートの幅をひろげようというのが,おもな目的です。
空港用地は,蛸島町から三崎町にまたがる鉢ヶ崎付近の市有地で長さ一千六百メートル,幅二十メートルの滑走路誘導路などを含める十八万六千四百平方メートルが予定されており,実現すれば,双発中型旅客機(三十人乗り)がじゅうぶん離着陸できます。
とまあ,こういうお話である。
いま,「のと里山空港」が実現し,当時,求めていた30人乗よりももっと大きな飛行機が飛んでいることを思うと,当時の議会の希望なり計画なりが,そんなに荒唐無稽な話ではなかったんだろうなと思う。ただ,もし鉢ヶ崎海岸に空港ができていたら,今のきれいな海水浴場はどうなっていたのか,少し心配だけど。