2022 東大 第四問 武満徹「影絵の鏡」

 

A:本文の構成(省略)→(B)を参照

 

B:論と設問の問の基本骨格

 

全体から気になる中心的なフレーズをまず拾ってみると、冒頭、筆者は自分の作曲家としての営みの意味について触れ「宇宙的な時間からすれば無に近い束の間」にすぎないのかと自問。続いて「知的生物として、宇宙そのものと対峙するほどの意識を持つようになった人類も、結局は大きな、眼には感知し得ない仕組の内にあるのであり、宇宙の法則の外では一刻として生きることもなるまいと感じられるのである」と書き、「生物としての進化の階梯を無限に経て、しかし人間は何処に行きつくのであろうか」と再び自問してキラウェア火山でのエピソードを紹介。後半、インドネシアを旅したエピソードには「私たちはともすると記憶や知識の範囲内でその行為を意味づけようとしがちではないか」として、フランスの音楽家たちの姿勢と違和感を書き、最後に影絵を演じる老人の在り方に接し「何か」を見出したとしている。

とても大雑把な把握であるが、音楽の在り方を考える上で、人間の思考や意識による知的営みと、人間を包む宇宙(自然)の仕組みの在り方について書いているという大筋が見える。自然(宇宙)と人間の関係性という観点で各設問の中心を以下のように考えてみた。

 

設問(一)

圧倒的な力を前にした無力感

(自然に支配される)

設問(二)

それをナンセンスとする考え

(自然・人間 ≠ 支配・被支配)

設問(三)

西欧近代=自然を知的対象化

(自然を支配しようとするあり方)

設問(四)

宇宙との交感

(自然との一体化)

 

 

C:全体要約と問の役割

設問の解答をつなげることで全体要約とした。

 

(一)キラウェアの火口を前に、私たちは意味付けを拒絶する宇宙の摂理の大きな力に圧倒され、自分の無力に心をとらわれていた。(二)(その)私たちの重苦しい沈黙をナンセンスと評した言葉は、自然の因果律にとらわれ自分を見失う必要はないと思わせてくれた。(三)西欧の音楽家たちは異文化の音楽をその土地の自然や生活と切り離して対象化し、自分たちの利用に供する資源として捉えがちであった。(四)影絵を演じながら宇宙と会話するという老人の姿に、知を離れ意識を超えた次元で対象(音)そのものと一体になる自分の目指す音楽の在り方を見た。

 

 

D:各設問メモ

 

設問(一)

「私のひととしての意識は少しも働きはしなかったのである」とあるが、それはなぜか、説明せよ。

■解答主旨=意識を超えた大きな力の存在への衝撃

■解答メモ

「圧倒的な自然の力を前に」言葉を失った=思考を斥けられたということになる。「意識の彼方からやって来るものに眼と耳を向けていた」にはプラスのニュアンスも感じられるが、「空想や思考を拒む・どのような形容も排ける支配される」などのことば、あるいは次の場面でも「気難しい表情」とあるように、この傍線部は、言い過ぎでなければ、自然の力に対する、大きな力による圧殺のようなニュアンスを帯びている。「ひととしての意識」を後半の段落の言葉を用いて「知による意味づけ」としてみた。

■解答例キラウェアの火口を前に、私たちは意味付けを拒絶する宇宙の摂理の大きな力に圧倒され、自分の無力に心をとらわれていたから。

 

設問(二)

「周囲の空気にかれはただちょっとした振動をあたえたにすぎない」とはどういうことか、説明せよ。

■解答主旨=人間と意味づけられない力の肯定

■解答メモ

傍線部「ただ・・すぎない」をマイナスで取るか否かは難しい。ケージも、例えば次の場面のフランスの音楽家のような知を優先する音楽家のひとりとしてその言葉を見るかどうか。でも彼の「バカラシイ」という言葉は言葉をその場の人々は「ごく素直な気持ちで受容」「否定的に受けとめたのではなかった」とプラスに作用しており、「歌うように」言われた言葉にはむしろ場を和ませる意図的なジョークのようで辛辣な響きも感じられない。「すぎない」ということばはその前の「沈黙の劇に註解を加えようとしたものではない」を受けていると考えられる。

疑問は残るが、傍線部の大筋は、「(周囲の空気に)重苦しい沈黙に(振動を与えた)解きほぐすよう作用した」のようなニュアンスで理解すればよいのだと思う。■解答例ケージのバカラシイという軽い言葉は、人間の無力をあまりに深く受け止めてしまっている私たちの重苦しさを解きほぐしてくれるものだったということ

ただ「人間の思考や意識による知的営みと、人間を包む宇宙(自然)の仕組みの在り方」を全体主旨と考えると、ケージの言葉がプラスとして作用しているなら、その意味は「それでも人間はそれ(力・仕組みに囚われた)だけの存在ではない」、あるいは「すべてを意味づけられるものではない」というニュアンスを帯びると考えてみたい。考えすぎかもしれない。

■解答例私たちの重苦しい沈黙をナンセンスと評した言葉は、自然の因果律にとらわれ自分を見失う必要はないと思わせてくれたということ。(圧倒的な自然を前にした重苦しい沈黙に、バカラシイというケージの言葉は、それでも私たちはそれだけの存在ではないことを示唆していたということ。)

 

設問(三)

「かれらが示した反応は〈これは素晴らしい新資源だ〉ということだった」とはどういうことか、説明せよ。

■解答主旨=西欧近代の知的対象化という在り方

■解答メモ

「私たちはともすると記憶や知識の範囲内でその行為を意味づけようとしがちではないか」「聴くことは音そのものと化すこと」という前提があり、インドネシアのガムランに接したフランスの音楽家がそれを「新資源」として利用すること(知的対象化)の違和感が「異質の音源を自分たちの音楽表現の理論へ組み込むことにも熱中しえない」と書かれている。「私の生活は、バリ島の人々のごとくには音楽と分かちがたく一致することはないだろう」のニュアンスも汲みたい。

■解答例西欧(フランス)の音楽家たちは異文化の音楽をその土地の自然や生活と切り離して対象化し、自分たちの利用に供する資源として捉えていたということ。

 

設問(四)

「そして、やがて何かをそこに見出したように思った」とはどういうことか、説明せよ。

■解答主旨=そのものとの一体化・交感という在り方

■解答メモ

説話を語りながら影絵を演ずる老人に対し「何のために誰のために行っているのか」と問うと「自分自身のためにそして多くの精霊たちのために星の光を通して宇宙と会話している」「何かを、宇宙からこの世界へ返すのだ」と応える。その時、「私は意識の彼方からやってくるものがあるのを感じ」、何も現われないスクリーンを眺め続けると「そこにやがて何かを見出したように思った」と書かれている。

基本的には老人の在り方に象徴されているのは「宇宙(見えない大いなる力)と交感」である。意識を超えたものに対する「宇宙・自然の摂理へ畏れ(問一・二)」から「共にある、そのものとの交感」への展開ととらえる事はできないか。それは傍線部ウの手前にある、聴くということは記憶や知識の範囲でその行為を意味づけることを超える「音の内に在るということで、音そのものと化すこと」という在り方が重ねられる

「何か」も難しいが、冒頭、筆者は自分の作曲家としての営みの意味について触れており、老人への「何のために誰のために行っているのか」という問いかけもそれに重なっているか。設問三のフランス人の音楽に対する考え方とも対になっている。これらを踏まえるとこの文章は自分の作曲家としての在り方について述べていると考えられ、それが見出した「何か」だと捉えてみたい。

■解答例:影絵を演じながら宇宙と会話するという老人の姿に、知を離れ意識を超えた次元で対象音そのものと一体になる自分の目指す音楽の在り方を見たということ。