近藤康太郎さん 「多事奏論」2014/5/11から | sorariri89のブログ

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近藤さんの『多事奏論』を読んでの記事、久しぶりに書いてます。

 

アロハ」も含め、記事は読んで触発されたりはするのですが、感想めいたものを書ききるまでには至っていませんでした。

 

目にするタイミングが遅れ気味だったというのもありますが、

思考回路の衰えとエネルギー不足を認めざるをえません…いやだいやだタラー

 

先週の土曜日に出ていたこれも新聞紙面では見逃していました。

 

デジタルのほうで何気に検索かけたら、

あら!となり

 

読み始めると、鍬や猟銃つかんで野に生きる近藤さんご健在!の内容でした

 

冬の猟期から田仕事に移るとほっとする読者もいるとのことで

 

殺生」から「生かす、育てる」業に変わったというのがその理由らしいのですが・・・

 

そっか、そっかあ・・・です

いろんな考えの人がいるもんなぁ…

 

近藤さんのシンパでもこれだけはいただけなくて・・・

と感情を抑えながらもの申す人だっているかもしれないし

 

「イヤなら読まなければいい」

今はなきヤフーみんなの感想でしばしば目にした

"アンチ撃退の捨て台詞"みたいなことは言わないでおきます

 

田んぼ耕してても、小さなものの命を奪うことは避けられない、と近藤さん。

 

私としては、近藤さん言うところの

「人間なんて みんな 業が深いんだ」

に一票です。

 

その業の深さを"ごまかさない"という点で

近藤さんは石垣りんの詩「シジミ」を抜粋する形であげていました。

 

私にとって未知のものだったのでネットで検索、読んでみました。

 

 

 

「シジミ」              石垣りん

夜中に目を覚ました。
ゆうべ買ったシジミたちが

台所のすみで

口をあけて生きていた。

 

「夜が明けたら

ドレモコレモ

ミンナクッテヤル。」

鬼ババの笑いを

私は笑った

それから先は

うっすら口を開けて

寝るよりほかに私の夜はなかった。


 

 

 

シジミのはかない命に同情心を寄せることなんて微塵もないけど

最後の口を開けて寝るしかない"私"は、残酷というより、こっけいですらあります。

 

その向こうにはどこか容赦ない生命連鎖が見え隠れして

今昔物語』にある荘子サギを射とうとした話が浮かびます。

 

真理を見抜きスタコラサッサと逃げだすところがさすがの荘子、というお話でしたが…




 

石垣りんと言えば

ずいぶん昔に読んだ詩にデカい岩を抱えさせられたような気持ちになったことがあります。

 

ご存じの方もいらっしゃるでしょう

 

くらし」という詩です。

 

 

「くらし」             石垣りん

食わずには生きてゆけない。
メシを
野菜を
肉を
空気を
光を
水を
親を
きょうだいを
師を
金もこころも
食わずには生きてこれなかった。

ふくれた腹をかかえ
口をぬぐえば
台所に散らばっている
にんじんのしっぽ
鳥の骨
父のはらわた
四十の日暮れ
私の目にはじめてあふれる獣の涙。

 

 

 

私はこれで詩人の眼差しの"凄み"に射抜かれたように思います。

 

近藤さんが引用されているもう一遍の詩「」も強烈な印象が残っていますが、

 

私には茨木のり子と双璧をなす、甘々したところのない言葉の仕事師というイメージがあります。

 

お二人ともが戦争の時代を生き抜いてきて、

片や切れ味鋭いナイフのような面差しなのに対し、

 

片やなんか気の良い下町のおばちゃんという相好で、

 

それでもあんな詩を書けるのは、石垣りんという人が元来待ち合わせたものにプラスして、子どもの頃から親兄弟との縁が薄かったことで、生きることへの洞察力が磨かれていったから

そんな気がします。

 

生まれ落ちた命がその生を全うできることに今とは違う意味で何の保証もないあの時代に自分を造りあげていくことは、その人の芯を太くしていったようにも思います。

 

でも石垣りんさん (ここで急に"さん"をつけたくなり) が自身の詩を朗読する音声をyoutubeで聞いて、びっくり。

なんとまあ可愛らしいお声だこと!

 

その中で、伊藤野枝の息子、辻まことが亡くなったときの気持ちを表した詩を披露して語っていたのですが、これも印象的でした。

 

名前だけは覚えのある辻まこと。後で検索して出てきた写真にまたびっくり!

 

ワイルドなエレガンスを漂わせる風貌は只者ではない匂いがむんむんで、両親を思い浮かべるとそれも無理はないとなりますが、経歴など知るとやっぱり只者ではなかったです。

 

その彼を"ちゃん"呼びする、石垣りんさん

 

彼女もまた只者ではない、その一端が垣間見えたような気もします。類は友を呼ぶの典型??

 

近藤さん評する"ごまかしていない"

「シジミ」詩作の根源にあったのは、ただ喰らう側の自分を冷徹に客観視した開き直りだったのでしょうか。

 

己を俯瞰できたとしても、荘子のようにはなかなかできないと思うし、

人はそれを""と言い、その業の深さに近藤さんは"共感を覚える"となったのでしょう。

土と共に生きる人ならではの共感力かもしれません。

 

今年は石垣りん没後20年とかで、色々と彼女にまつわる著作が出版されているそうです。

 

そのひとつが本人のエッセイ集で、近藤さんによるとその中で、りんさんは村野四郎の詩「鹿」を取り上げていて

 

歳を重ね、撃つ猟師の目線ではなく撃たれる鹿の側になっている自分に気がついた、みたいなことを書いているらしいのです。

 

年をとったら、思いがけない近さに鹿が立っていた。自分も額を狙われる鹿であると。

 

鳥肌がたちそうになりました。

私が正に「シジミ」から連想した荘子のあの話ではないか、と。

その境地に、観念的にではなく、生きる実感のなかで達したということなんでしょう。

 

その上で凄いのが、荘子は逃げるが勝ちと考えたけれど、石垣りんさんは、というと

 

「人生の夕日、残り少なくなった時間」、

鹿のように、鹿のようにと呪文を唱える。

「あきらめとも、覚悟とも違う、心の姿勢のようなものが欲しくて」

 

鹿としての自分を生き抜こうとしているのです

すごい・・・と思うばかりです。

 

近藤さんも好きな詩、

それは撃つ側の人間として身につまされるところもあるから。

 

私も「鹿」は好きです。

というのも、この詩を読むと、「ディア ハンター」のあのシーンが浮かぶのです。

というか、この詩を映像化したらあの場面になるのではないかと思うくらい私には強い喚起力を持っています。

 

詩で描かれた鹿はおそらくあやまたず仕留められるのでしょう。

 

が、

映画ではマイケルは引き金を引くことができませんでした。

鹿は晩年の石垣りんさんが理想とした「諦めとも覚悟とも違う心の姿勢を正して」こちらを向いて立っています。

 

ベトナム戦争から帰還して大きな喪失をかかえるマイケルが、

対峙する鹿の双眸の向こうに何を見たのか…

 

映画のタイトルにもなったあの場面の発するメッセージが強く心揺さぶった「ディア ハンター」は、私にとっては紛れもない不朽の名作です。

 

鹿に向かって引き金を引くのも、引かないのも、自分です。

 

ただどちらを選び取っても、

近藤さんのように

諦めとも 覚悟とも違う 凛とした 心の姿勢は せめて ただして」いこうとするもう一人の自分がいるかどうか、

そこは大きいよな、と私は思うばかりです。