映画「オッペンハイマー」を観て | sorariri89のブログ

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3時間という長尺でしたが、集中力は途切れませんでした。そんな暇なかったです。


時間軸を操るのはこの監督が得意とするところらしいですが、
オッペンハイマー視点を主にしたカラーパートストローズ(最初は誰これ?でも全然大丈夫)を主にしたモノクロパートの対比は難解さの軽減にも一役買っているだけでなく、卓越した構成だと思います。


ストーリー的には三つに分かれるので、ある程度の予備知識がないとちょっと厄介かもしれませんね。


映画の前半2時間で"原爆の父"が誕生するまでの濃厚な人生に踏み込んでいくのですが
どこかで止めることは…との思いがつきまといながらも
できなかったんだろうな、と思い至ります。


イデオロギーの対立が顕著になり世界がどんどん小さく危うくなっていく時代に、たとえオッペンハイマーが踏みとどまったとしても、歴史の巨大な歯車を止めることはできなかっただろうし、誰かほかの者がプロメテウスにそそのかされたに違いないからです。


科学者の野心とその多大なる貢献で20世紀は科学が飛躍的に発展して、その延長線上に今の私たちはいるわけですが、物理学者になる人たちは謎解きが大好きなんだと思います。ましてや天才的頭脳の持ち主とあらば傲慢なくらい知的好奇心の塊なのではないでしょうか。そうでなければ、世界を変えるような発明や発見はもたらされないようにも思います。


ウランとプルトニウムをビー玉でたとえてガラスボウルに入れていくところはそれを象徴しているようにも感じられました。高所を綱渡りしていくような危険と隣り合わせの自己陶酔。


オッペンハイマーにとってナチスドイツより早く原爆の開発することが大義名分だったのは、自然の摂理を逸脱してしまう恐ろしさをぼやけさせ、謎を解き明かす高揚感に勝るものは何もないという科学者の性、業みたいなものを正当化させるのに不足なかったということでしょうか…


なんともやりきれない気持ちになります。


虫ケラのように命が軽んじられている数多の同胞を救おうとした一人のユダヤ人が、結果、世界を滅ぼすことも可能になる悪魔の兵器を創ってしまった。

創る者と使う者は別という逃げ道を残して


トルーマン大統領に面会した際に「自分の手が血塗られているように感じる」とオッペンハイマーが泣きを入れると、大統領はあからさまに不快感を示したという対比に、ことの罪深さが表れてもいるようです。トルーマンはルーズベルトの急逝によってその地位を受け継いだなりたてホヤホヤ大統領。そこにも悲劇の種が蒔かれてたんですね。


科学技術の政治的利用と莫大な富を得たことへの贖罪としてノーベルは賞を設立したのに・・・

マンハッタン計画にはノーベル賞受賞者の科学者が何人も参加していました。

そうそうたる顔ぶれのメンバーが集結したロスアラモスでトリニティ実験を成功させる場面の緊迫感はすごかったです。


ポツダム会談に間に合わせるという国家プロジェクトのハードルは越えられると分かっている身で も、その証人として立ち会っているような重圧の中、無音の映像からの爆音は凄まじいばかりで息を呑みました。


ここIMAX向けなんでしょうが…


8月6日のシーンも同じでありながら、画面の流れに深刻さは…

流石にオッペンハイマーが結果を気にしている描写はありましたが


日本人としてはやはり複雑な感情が渦巻きます。


あの業火によって・・・


ドイツに使うはずだったのが、降伏したことで大義のすり替えがなされ、オマケに戦争終結の決定打にしたいなら、広島だけでやめればいいのに、日本に熟慮の余地も与えず3日後に長崎


映画の中でも計画の統括者である陸軍将校グローヴスがいわば「見せしめ」のためというような発言がありました。原料のウランとプルトニウム、2種類を試したかったのだと私は思っています。



キリアン・マーフィーのオッペンハイマー再現度はアカデミー賞受賞に申し分ないものでした。


屈折した本質や内面の葛藤も罪悪感も切実に体現されていました。共産主義に傾倒する人たちが周りにいたということでも見えるものがあり、目指すところはより良い世界という点で肌が合ったということでしょうか。女性たちもそれぞれに磁力が強く激しく引き合ったみたいですね。

ずいぶん前にYouTubeで、残された本人の映像などを見たことがあります。

そのとき強く印象に残ったのはあのウロのような哀しみを湛えた薄い(青い?)眼と有名な言葉でした。訳によって微妙な違いはあるようですが、


我は死に神なり。世界を破壊する者なり。


映画でも出てきます。それを口にする場面の脚色は、闇を抱えることになる残りの人生を暗示するようでゾクっとしました。

映画は戦後のスパイ嫌疑をかけられたオッペンハイマーの聴聞会と、実はそれを裏で画策した(私怨によるもの)ストローズの商務長官の指名承認公聴会が平行して進んでいきます。


聴聞会密室で行われ、公聴会公開の場で行われます。そういった史実をうまく生かしながらこの映画が作られていることはもちろん、画面に対するこだわりであるとか、美意識や台詞回しのセンスなど、この監督の作家性は知的でクールだと感じました。イギリス人というのも影響してるかもしれませんが、伝記としての客観性も高いと感じました。他の作品は見てなくて、あくまでもこの作品から感じたこととしてですが

とんでもないものを創りだしてしまった一人の科学者を描いた映画という点ではとても見応えがありました。


そして見終わった後に何が残ったかというと、虚無です。現状を思うと過去の歴史的事実はあまりにもグロテスクです。

直後の被爆地をレポートする記録映像からオッペンハイマーは目を背け、ここでなぜその映像が映されないのか、日本で物議を醸し、日本での公開も危ぶまれたりしましたが、

私個人の感想としては「見せたところで・・・」というものです。オッペンハイマーの表情に絞った演出は作品のトーンとしては自然だと思います。


これはノーラン監督の言葉としてパンフレットにも書いてありましたが、「核兵器を扱いながらこの映画がエンターテイメントであることに変わりない」という言葉に集約されていると思うのです。

オッペンハイマー自身、あの実験を目の当たりにして、それが人の上に投下されたらどんなむごたらしいことになるか、想像しなかったわけはないと思いますが、現実はそれを遙かに超える惨状、地獄絵図になったということでしょう。


映画の冒頭や随所で響く歓喜の足音がオッペンハイマーの耳にねじ込んでいくパラドックス効果も秀逸でした。


序盤でストローズが自分の悪口を言われていると勘違いしたあの池畔でのアインシュタインオッペンハイマーのやりとりが終盤で再登場します。


何を言ったかがここではっきりするのですが、

20世紀で最も宇宙の神秘に近づいた天才だからこその重みを感じさせながら、あの風貌で茶目っ気たっぷりに言ってのけるのです。人間の愚かさを認めつつ科学の知恵、科学者の理性を信じるしかないんです。


このシーンはトリニティ実験と双璧をなすこの映画の見せ場だと私は思います。(このそっくりさん誰?と思ったら、『戦メリ』でローレンスやってたトム・コンティ!懐かしいやら嬉しいやら)

ストローズの長官就任賛成46反対49で否決され、とんだ誤算にほぞを噛むのですが、その反対票の一票を投じたのが誰あろう、JFK


アメリカ人なら周知の事実かも知れませんが、それでもその登場にはOMGとなったのではないでしょうか。私でも瞬間目を見張りましたから。


でも確実に彼らに呼び覚まされた感情というのは私とは違うものなんでしょうね。

ストローズの転落に対して、オッペンハイマーは名誉を回復します。


かつて彼を追放した原子力委員会が「科学者に与える最高の栄誉」としてオッペンハイマーにフェルミ賞を授与したのです。そのパーティーで彼はアインシュタインの言葉をかみしめたかもしれません。それなりににこやかなオッペンハイマーに対して妻キティの態度はなかなかなものでした。

オッペンハイマーは生涯自分を赦さなかったと思います。かといって結果に向き合ったといえるのか、私には分かりません。1960年に来日したとき、広島にも長崎にも足を運ばなかったそうですから。
水爆に反対しながら、その開発が成功したことには絶望しかなく、抜け殻のような晩年を過ごしたのかもしれません。彼の晩年のインタビュー映像を見てそんな風に感じます。

映画「オッペンハイマー」が世界的にヒットしたのは核の脅威が現実味を帯びてきているからとも言われています。

広島への外国人訪問者数も格段に増えているそうです。

この映画がきっかけとなった人ももちろん大勢いるでしょう。いいことだと思います。


映画では映されなかった惨状を自分の足を運んで自分の目で確かめることにもつながると思うので


私も恥ずかしながら、今になっての広島初訪問を考えています。


この映画は一見の価値大いに有りです、歴史の教えを受け取るという意味でも。


見る前に予習しとくとより理解も深まるでしょうね。


ありがとうございました😊