ヴィム・ヴェンダース監督作品「PERFECT DAYS」 | sorariri89のブログ

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(スミマセン、ネタバレいっぱいの例によって長文です。お時間あるときにお読みくだされば、と思います)



 

カンヌ映画祭役所広司男優賞を受賞した凱旋上映でもあるのに、テレビとかの宣伝も私はとんとお目にかかれず、 知ったのは公開後。年明けと合わせて2回観ました。

 

これだけ情報が溢れているのに、掴むのにはコツが必要というか、

 

「世界はたくさんあって、繋がっているようでつながっていない世界があるんだよ」

 

映画のなかで印象に残った、寡黙な主人公平山のセリフが蘇ります。

 

できるだけ前情報なし、レビューも読まずに観に行きました。


私は2ヵ所の映画館で平日の昼間に観ましたが、どちらもそこそこの人が入っていました。客層はやっぱり大人がほとんどでした。


 

オープニング

 

葉擦れの音。薄暗い道を掃く竹箒のガーリガーリという音で主人公平山は目覚めます。


目覚まし時計は無し。


布団を畳み階段をトントンと下り、歯をシャカシャカと磨き、蛇口をひねるや安っぽいステンレスのシンクを水がボダダダと打ちたたきます。

口髭をハサミで整え、電気シェーバーで顎髭をジーっと剃る。


それから平山は水を入れたスプレーを手にまた階段をトントン上り、

奥の部屋の小さな鉢植えたちに愛おしそうにシューシューします。


猫を飼わない代わりに植物を飼っている。


なるほどそうゆう人なのか

 

背中にThe Tokyo Toiletと白いロゴが入った青い作業衣に身を包んで居室を出る直前、

入り口ドアの脇についた出っ張りのような棚に並べられた携帯電話やコンパクトフィルムカメラ、鍵の束、皿に入った小銭を取り上げてポケットに収める。

腕時計は棚に残したままです。


なるほどそうゆう人なのか

 

ドアを閉める際に鍵をかけてないように見えるのは内側ノブのヘソを押しとけばそのまま施錠される作りなんでしょうか


映画の中で一度もキーをさして閉めるのを見ませんでした。これだけでも古いアパート感がにじんでます。

 

明け方の空を見上げアパート前にある自販機で缶コーヒーを買ってから仕事用のワンボックスカーに乗り込む。

 

私はここで平山の何気ない仕草に目を引かれました。


運転席に座って手をちょっと擦ってからハンドルを握ったのです。ほんとにささいな一瞬の仕草でした。缶コーヒーが温かくても冷たくても、とにかくドキュメンタリーのような感じがした瞬間。

一気に平山が息づき、物語は始まったのです。

 

ここまで平山はまだ一言も発しておらず、画面から聞こえるのは自然の音や生活音のみ。他の人間の声もありません。それらのとても慎ましい音が曙のグラデーションの中で密やかに一日の始まりを彩る。こじんまりとした生活のサイズ感はそこから拡大することはありませんでした。

みすぼらしい感じは全くなくて、所謂ミニマリストのような暮らし。


カセットテープをケースから出してセットする音さえ懐かしくて心地よく、

出勤のお供に何を選んだのかと思えば、

アニマルズ「The House of The Rising Sun(朝日の当たる家)」


スカイツリーを横目に朝日に向かって進んでいくBGMとしてはベタなのにハマりすぎで、ちょっと鳥肌モノでした。


なるほどそうゆう人なのか


ちなみにタイトルにもなっているルー・リードの名曲「PERFECTDAY」を平山がどこでかけるかというと、ふむふむそうなんだと思う場面で、ちょっと微笑ましかったです。


そんなわけで

 

渋谷の公共トイレの清掃員平山の型にはまった毎日が淡々と描かれているだけの映画なのに退屈とは程遠く、


平山の日常は判で押したような毎日だけど、人との交流を最低限で結んでいるから、何かしら出来事が起こり、何かしら心に波風も立ちます。


なぜ平山はこんなにも寡黙なのか、昔はそうではなかっただろうに、と思わされるほど表情は細やかです。


見上げる木漏れ日に目を細め、何とも満ち足りた笑みを浮かべる佇まいはどこか謎めいていて不思議な引力を隠し持っているのです。


でも、同僚のタカシはそんなこと全然頓着しなくて、パーソナルな質問をしても平山に興味があるからというわけではない。だから平山が何も答えなくても、不満を募らせたりしないというのが鬱陶しくない距離感なのでしょう。


それは平山が長年かけて身につけてきた処世術のように受け取れました。

 

いつからか毎日毎日同じことを繰り返して、これからもそうに違いないと思えても、物足りなく感じることもなかったのは、平山という男に息を吹き込んだ役所広司の人物造形の素晴らしさはいうまでもなく、その切り取り方や見せ方にこの監督ならではの一流の深みとか繊細さがあったからです。



ヴェンダースはやっぱり好き。


といっても「パリ、テキサス」と「ベルリン・天使の詩」しか観てませんが…


 

平山の一心不乱にトイレの中を拭きあげる姿は、まるで修行僧のようでもあり、なぜそこまでという興味がそそられるものの、好奇心を満たしてくれるような説明はありません。もしかすると自ら課した罰としての労役なのかと考えたりもしましたが、憶測の域を出ることはありませんでした。


今時の価値基準 "分かる・分からない" でいうと、"分からない"に寄ってると思います。


でも、仕事の合間に木漏れ日の写真を撮り続ける平山の柔らかな眼差しは、分ろうとしなくていいと語っていました。


とは言え、

この映画で実社会でもその清潔さを維持すべく人の手がかけられているのはよく分かりました。こういう人たちのおかげで気持ちよくトイレが使えることに感謝です。


YouTubeで訪日外国人にインタビューする動画見てるとトイレの綺麗さに感心する人が多いのですが、普通の公衆トイレでもそうなんだから、こんなトイレを知ったら嘆息ものだろうなと思います。しかも無料!

 

ただこの映画の出発点を考えると映画の中に出てくるトイレはプロジェクトの産物で、美しく快適なものばかり。掃除に入る段階でもっとカオスの状態というのが現実ではあったりするのでしょうが、それはこの映画で描きたいものではない。

 

社会的問題を扱ったものではなく、あくまでも定型抒情詩の趣です。

しかも尊敬するのが日本の監督という西洋人が日本を舞台に日本人俳優で撮った映画。その独特の空気感が作品を高めていると思いました。

 

公開イベントの舞台挨拶の動画を見ると

「これがドイツ人が撮った映画と思えますか?」とすっかりご満悦な様子の監督でしたが、私にはやはり外国人の視点が入った映画に感じられました。

 

平山が昼飯のサンドイッチが入ったコンビニ袋をトイレの中で手に取り、外のベンチに座ってそのまま袋から出すと手づかみで食べるという流れとか、

これは平山の心象風景なのか、リアルなのか、という余地を残しつつ、ホームレスの田中泯にスクランブル交差点でも舞踏させるとか、

おもむろに現れてお辞儀をする神職がいたりとか…


日本人である自分の目には若干意外に映りました。面白かったです。


平山には10代半ばっぽい姪がいました。名前はニコ。今時の女の子の外見とナイーブな内面を持つ女の子にはセンスありすぎの名前ですが、

その子が平山の妹である母親とぶつかって家出の挙げ句、平山のボロアパートに転がり込みます。客用寝具があるとは思えないから、居候中はたぶん平山が使っている布団に寝たのだと思います。


背に腹は変えられないというのを感じさせることもなく普通にくるまってて、

母親が迎えにきて伯父さんと別れるときにはハグまでして、私には遠い世界線。


それから平山も立ち去り難そうにする妹に万感こもったようなハグをします。


ここでも捻くれ者の私はハグさせるのかあ、と引き気味だったのですが、

 

どなたかは「それは平山が家族円満で生活水準も高い家庭で育ったことを表していると思える」とコメントされていて、なるほど言われてみればそうかもな、と思いました。


確かに平山の来し方は何も明かされません。今があるだけです。


姪っ子に、「今度は今度、今は今」と強めに言うところにも、平山が今、今日一日を生きる人だと思えます。(この自転車のシーンは好きです。)


だからこそ、


妹たちを見送った後に平山がむせび泣いたとき、置いてきたであろう過去への複雑な思いが汲み取れて、胸がざわつきました。父親との葛藤があったことも妹の言葉から推しはかることもできるし、自分で選んだ人生だとしても、歳を重ねるとどこか疼いたりもするということに共感しかありません。


普段の平山は生きていくのにあくせくなんてしてなくて、両の手のひらに乗っかる幸せに満足しているようでもあります。


たぶんそうなるまでに沢山のものを得ようとしたり手放したり、きっと手も傷跡がいっぱい残っているのではないだろうかと想像してしまいました。


自分の職業を過大評価も過小評価もせずにとにかくやるべきことを粛々とやって、終われば銭湯に行ってくつろぎ、地下の飲み屋で安酒を飲み、休みの日にはコインランドリーで洗濯物をまとめ洗いして、古本屋で100円の小説を買い、憎からず思っている女将の店でちょっと格上の酒を飲み、横になって眠くなるまで小説を読む。


選ばれる小説はフォークナーとか幸田文とか


なるほどそうゆう人なのね


やっぱり興味はつきません。


住まいにある必要最小限の生活雑貨もいちいちオシャレで、それらも含めて、この映画はどこか外国人が英語で作った俳句のような、洗練された風情を感じました。


孤独でも美しく生きることはできるし、幸せを感じることもできる。全編通してそんな平山の生き方をひとつまみの羨望と共に肯定できるのは、孤独に生きる寂しさも滲んでいるからです。


それは眠りに落ちる前に平山の脳裏に訪れるその日一日のイメージがモノクロであることで表現されているように感じました。




エンディング


カセットテープから流れるサウンドはジャジーで気だるいボーカルがカッコよくて、それをBGMにして七変化を見せる平山の表情ドアップに私は心揺さぶられました。私自身の生きることの寂しさを呼び覚まされたようで…


約3分に渡って、平山の心の奥底を表出しきった役所広司は圧巻でした。


その絞るような表情を少なからず誘発したのは三浦友和演じる飲み屋の女将の元夫の存在も大きいと私は思っています。そう思わされるだけの大吟醸のような味わいある演技でした。


登場したときには顔が映らず、振り返った瞬間に「三浦友和!」となり、その後のおっさん二人の影踏みのシーンはしみじみ。三浦友和、いい役者になりましたよね。どんな汚れた役をやっても、若い頃からずっとある清潔感が層を作って魅力を増している稀有な役者だと思います。


三浦友和だけでなく、柴田元幸が出てる?とびっくりしたし、あがた森魚はエンドロールで知り、2度目で確認できたという、驚きの配役。私の知らなかった若い2人の女の子たちも印象的だったし、もちろん有名どころでいうなら石川さゆりもです。あんな情念の世界が歌えるんだから大根ではなかった。田中泯はすぐに分かりすぎるくらいわかりましたが、

麻生祐未柄本さんちの時生くんは安定のうまさ。


でもとにかくこれは役所広司の映画ですね。誇れる代表作、彼の「東京物語」だと私は思います。

もちろんヴェンダースにとっても


そして私にとっても好きな映画がひとつ増えて、嬉しい限りです。




オマケ

エンドロールでTOTOだけでなくダイワハウスまでクレジットされていてクスッとなりました。ダイワマンの貢献に因るところ大でしょうか…


そのエンドロール中に席を立った人は

暗転した最後に

木漏れ日」のキャプションを見届けなかったのは勿体ないなぁ、と思いました。


それがこの作品の通奏低音になっていたことを再確認し、美しい映画を作ってくれてありがとう!という気持ちでいっぱいになりました。


ロングランのようなので、また観に行きたいです。


最後までお読みいただき、ありがとうございました😊