7月15日(土)の朝日新聞朝刊から | sorariri89のブログ

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「30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい」の
ヤフー「みんなの感想」から広がったブログです。書くことが好きで、日々の出来事から感じたことや自分のこと、ドラマのことやエッセイ、詩、時には小説、など綴っていきますので、どうぞ宜しくお願いいたします。

朝日新聞には、土曜日朝刊に別刷りのbeというのが入っています。


その中に「悩みのるつぼ」という、読者から寄せられるお悩みに数名の担当者が持ち回りで答えるコーナーがあります。いわゆる人生相談です。

 

けっこう歴史もあって本紙の方に掲載されている頃、私は中島らもさんの斜め上から降臨する回答が好きでした。

 

beに引っ越してからは、同郷の作家車谷長吉さんがこれまた独特すぎる回答で、なんというかケムにまかれるような味わいを楽しんでいました。

 

が、お二人とも今や天上の人となり…

 

現在は上野千鶴子さん、姜尚中さん、美輪明宏さん、清田隆之さんが順繰りに担当されています。相談者からの指名もあるみたいで、相談内容と回答者のマッチングも考えられていると思います。いつも、ならでは の納得感で感心させられる楽しみのコーナーです。

 

今回は姜尚中さんが担当されていました。

相談は30代のお母さんから。


9歳の息子と映画「サウンド・オブ・ミュージック」を鑑賞して、その帰途息子から途方もない質問を突きつけられて…

 

ナチス時代に何も自分一人では抵抗することもできない。たとえ対抗しても殺されて終わり。お母さんならどうする?

 

衝撃を受けたお母さんは、

できたら亡命したかな…

アインシュタインもそうしたし、

ゴニョゴニョ…

 

この子は歴史にも詳しく、映画の時代背景も理解できていたそうで、描写の素晴らしさにも感嘆するという、9歳にして知性も感性も素晴らしいものを持ち合わせた子どものようです。きっと物事を深く考えられる賢い子なんでしょうね。

 

そして、

実際に今も戦禍に生きている人がいる中で、聡明な9歳の息子に投げかけられた問いが、お母さんにとってはとてつもなさすぎて、今も答えがわからない。そこで「悩みのるつぼ」への投書となったようでした。

 

この子は

周りに左右されないよう、周りに関心を持ちたくない

と鑑賞後に言ったそうです。


そこがまだ幼い思考回路かなと思いましたが、この子の未来は大袈裟に言えば人類の未来を啓く可能性に満ち満ちていると、くたびれた大人の私なんかは爽快に感じてしまいました。


私がこの映画を見たのはテレビの洋画劇場で、何歳くらいだったかもう記憶はありませんが、代表曲の「ドレミの歌」や、登場人物とか情景描写とかが美しくも呑気に思えたのか、そこまで強く戦争の悲惨さに想いを馳せることはなかったように思います。

子ども目線には「禁じられた遊び」の方が戦争のもたらす絶望を深く感じられ、哀愁を帯びたメロディーが流れるあのラストには、底なし沼に脚を引っ張られていくような怖さやどうしようもない悲しさをを覚えた記憶があります。

 

さて今回の「悩みのるつぼ」

姜さんも書かれていましたが、大きくて根源的な相談はそうそうお目にかかるものではありません。


人生の垢がこびりついた大人には及びもつかない根本的な問いを投げかけている。


私もそう思いました。


親として挑まれたともいえるわけで、この親子の今後を左右もする真剣勝負と捉えられます。


でもある意味、ずっと考えてまだ答えがわからないという、このお母さんの子どもだからこんな受け取り方ができるのかな、とも思います。

 

姜さんの回答も良かったです。

 

こうすればいい、ああすればいい、というような具体的提案というのではなく、かえってそれがとても胸に響きました。

例えるなら、眼前に広がる暗闇にいくつかぽっと小さな灯りをともして照らしてくれる、そんな寄り添う優しさみたいなものを感じました。


映画と同じような時代に生きることになっても、抵抗か死かという極端な二者択一ではなく、どんな時代と世界であっても、そこには様々な陰影に富んだ人生のグラデーションがあることを少しずつ学んでいけるようにしたらいい。

そしてそれには実人生での「遍歴」の歳月が必要で、この子はこれからそのことを学んでいくはず


そう書かれていました。

 

この方は確か息子さんを自死で亡くされていて、キリスト教に入信されたとうろ覚えしています。

親の気持ちとして色々と感じるものもあったのではないでしょうか。


この男の子はどんな道を歩んでいくのでしょう…



願わくば、極端に偏らず広い視野と逞しさを得て育っていってほしいです。

 

体制に対する個人の漠然とした危機感みたいなものも、様々な社会的束縛は安全や安心も保証してくれると身に染みていけば、危機感や違和感に鈍感になっていくのも不思議ではなく、それが大人になるということかもな、と自嘲する自分には、眩しくて輝いて見えます。


奇しくも、同じ日の本紙のほうに掲載されている有識者のオピニオン欄「耕論」で、絵本作家の五味太郎さんの、姜さんを援護射撃するようなコメントがあり、興味深く読みました。




物事の根幹に迫るような質問ができるのは10歳くらいまでじゃないかな。


社会の枠組みをじわじわと押しつけられていくけど、子どもには自分の疑問がある。


大人が、自分も分かっていないのに、知っているようなフリをして簡単に答えるのはたちが悪い。


うまく答える必要はない。大人だって分からないことはいっぱいある。ごまかすのではなく、知らないと言えるかどうか。


分からないということを共有できれば、子どもも少しは安心できる。さらに一緒に調べてみようと言えれば、より建設的なのかな



相談したお母さんも多分読まれたのではないかと思います。きっと勇気づけられたことでしょう。


「争いが絶えない世界に平和は来るの?」と尋ねられたら、「来てほしいけど、分からない」としか言いようがないです。でもそんな態度は、決して投げやりなのではなく、誠実な頼りなさだと私は思います。世界を変えられると錯覚するよりよっぽどマシです。


その自覚があれば、子どもの心を丸々軽くしてやることはできなくても一緒に考えていくことはできるし、子供にとってそんな身近な存在が、世界を損か得か、白か黒かの味気ないものではなく、忍耐強く豊かに彩ろうと希望の筆を取れる人間を作っていくことにもつながるのではないかと思います。周りにどんな大人がいるかはとても重要です。


子どもの頃から子どもが苦手な自分が、子どもと関わる仕事をここまで続けてこられたのも、子どもは未来そのもので、自分がいなくなった後も続くであろう未来を信じたかったからかもしれない


最近そう思うようになってきました。


未来はいつだって若い人たち、小さい人たちの側にある、あなたたちにこそそれを信じてより良く今を生きていってほしい。そう思うばかりです


7月18日に