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川端康成の「少年」から誘われるようにして、スピーチ原稿とも言える本書を読むことにしました。
あまりにも近代日本文学の大御所を知らなさすぎた自分にちょっと焦ったというのもあります。
かといって、小説はしんどいなと思い…
川端康成関連の書評などをあれこれ渉猟していて、初めてこんな書物が出版されていると知ったのです。
ご存知の方、既読の方からすると何を今更だとは思いますが、
とにかく私はこの歳にして初めて、川端康成のノーベル文学賞の授賞式スピーチを読むことになりました。
(それが予想以上に大仕事になるとは思わずに…)
虚心坦懐を心がけていると、読んでいる最中もそうでしたが、読み終えたときには、自分自身もどこか高みに引き上げられ、そしてそこから遠くを眺めているような感覚に包まれていました。
言葉は…
強いて言うなら、
今から半世紀前、日本人で初めてノーベル文学賞を受賞して、このスピーチをもってくるんだ…
予想外の驚き、そんな感慨でした。
「卓越した芸術的手法をもって、道徳的かつ倫理的文化意識を表現したこと」
「東洋と西洋の精神的架橋を作ることに貢献したこと」
の二点を重視し、
「優れた感受性をもって日本人の心の精髄を表現した小説技法」
に賞を与える。
というのがスウェーデン・アカデミーの歓迎演説としての弁ですが、
その賞賛に値する、というかそれ以上の
日本語で、日本の精神の拠り所に息づく"美"というものを表現し続けてきた、日本人小説家の真髄に触れた思いがしました。
スピーチ草稿時のタイトルは
「日本の美と私」
それを二本線で消して変えているのです。
写真が載っていて、読んだ後に気づきました。
そうした意図が分かりすぎるくらい分かるという読後感でしたから、更に深く息を呑み込みました。
「美しい日本の私」
全く趣が異なるというものです。
英語のタイトルは
「JAPAN THE BEAUTIFUL AND MYSELF」
恐らく、元の日本語を意識した訳なのだと思いますが、改題を訳すならどんな英語になったでしょう。翻訳の難しさを思い知らされました。
"美しい"のは 日本なのか、私なのか、
それとも日本の私なのか、
"日本の"は 日本に存在してなのか、
日本に含まれてなのか…
曖昧を旨とする日本語の真骨頂を見た思いです。
自分はそのままの語感で受け取り、解釈を求めずとも、読めば理解が成り立つのですから、面白いものです。
さて、肝心のスピーチはというと、
いきなり
道元禅師(鎌倉初期の曹洞宗の開祖)の「本来ノ面目」と題する歌から始まります。
春の花 夏ほととぎす 秋は月
冬雪さえて 冷しかりけり
続けて、明恵上人(鎌倉初期の華厳宗の僧)の歌
雲を出でて 我にともなふ 冬の月
風や身にしむ 雪や冷たき
揮毫を求められた際にこれらの歌をよく書くと川端は言うのです。
自然、人間に対するあたたかく、深い、こまやかな思いやりの歌として、しみじみとやさしい日本人の心の歌として人に書くのだ、と
明恵上人の歌は他にも三首、月の歌をひいて、月の歌人と言われるほど、月に親しみ、自然に没入、合一していると言います。
そこからも十首以上の歌を引用しながら、平安の頃より連綿と継承されてきた日本人の心もちを、自然の移ろいと共に洗練されてきた豊かで繊細な日本語の妙なる使い手として、川端康成はその類い稀なる言語運用能力で切り結び、解き明かしていきます。
もちろん全て日本語で、同時通訳者が英訳したとのことで、実際の英訳文も掲載されています。
口語を訳しているというのもあって、シンプルな英語で読みやすかったのですが、英語を先に聞いて川端康成のスピーチが再現されるかとなると、どう頑張ったって無理というものです。
それぐらい、日本人にとってもかなり高次元の抒情性豊かな内容ですが、私はぐいぐいと引き込まれていきました。
大抵の日本人の大人なら、頭ではなく、胸の奥底に沁み入るものがあるのではないかと思います。
川端康成は決して空気を読めない人ではありません。実際、娘婿の公開されているレポートに、影響を受けた作家を尋ねられたら相手の国に合わせて選ぶに違いない、という評者の記述をあげていることからも、むしろかなり気配りの人だと思われます。
そうであっても、
国際的学会などを経験済みの科学者ならいざ知らず、ほぼ自国の読者対象に小説を書くという孤独な営みに没頭しているような作家を生業にしている人です。
そこからいきなり大きく羽ばたいて、居並ぶ西欧のインテリたちに対峙したときの緊張感はいかばかりだったかと想像するのです。
でも、彼らを前に川端は臆することなく、日本の男子正装の羽織袴姿で日本語の美しい韻文を引用して日本を語った。迎合や忖度などおもねることは一切無しで…
いえ、そういう場だからこそ濁りのない純度100%の己の土俵を持ち込み、そこで勝負したのではないでしょうか。
あの時代にこの全文が世界を駆け巡ったのかと思うと、感動すら覚えます。
めでたい席にも関わらず、良寛の辞世の歌や、自死した芥川や太宰も引き合いに出し、自身の死生観をも披露しました。
白居易の詩語から、雪月花に触れたとき日本人は人なつかしい思いやりを強く誘い出す、と川端は言います。
つまり四季折々の美を現す言葉は日本においては自然のみならず、人間感情を含めてそれを現すというのです。
自然という言葉すら必要としなかったくらい、日本人は自然と渾然一体でありました。そこに生まれる美意識は、自然を対立概念で捉える西洋人にはなかなか解りづらいものがあるでしょう。
良寛の辞世の歌
形見とて 何か残さん 春は花
山ほととぎす 秋はもみぢ葉
自分が死んで何も残せるものはないが、自分の死後も自然はなお美しい、これがただ自分がこの世に残す形見になってくれるだろう、というこの歌に、日本古来の心情がこもり、また良寛の宗教の心も聞こえる歌だ、と川端は解説しています。
禅に通じる茶道や花道の侘び寂び、平安文学に見られる美などを取り上げ、どれだけ日本の心が美を抱き続けてきたかが、綴られていきます。
ページを繰り、読み進めるほどに、はるかの昔日に清野少年に愛を見出そうとした孤高の文学者の研ぎ澄まされた言葉が、湧き水を飲み下すようにすうっと染み渡り、日本人である自分の心性をきちんと整え直してくれるようでした。
背筋が伸びる思いが心地よくて、肉声で聞けたならどんな気持ちになれただろうと想像します。
その頃のノーベル文学賞は西欧人に偏っているとの批判もあり、世界的権威の位置付けを維持するため、そろそろアジアはどうか、となり、日本人作家が候補に挙げられるようになったらしいです。まず日本人ありきということですね。
で、誰にするかとなって、谷崎潤一郎は68年早々に亡くなり、三島由紀夫はやはりまだ若い。そこで、川端康成に的が絞られたというのが真相のようです。賞の選考過程は50年経過すれば公表されるとかで、その舞台裏を知れるのも今だからこそです。
当時の川端もその辺は薄々感じるところもあったのでしょうか、自身でも当然の結果などとは思っていなかったようです。
翻訳のおかげ、三島由紀夫が若かったおかげ
とインタビューでも謙遜しています。
翻訳者のサイデンステッカー氏には賞金の半分を譲ったとか…
でも実は自分に賞を譲ってくれと三島由紀夫に手紙も書き、彼には推薦文まで書いてもらったようですが…
そして念願かなっての受賞。晴れの授賞式。
同時通訳があったとはいえ、果たしてどれだけの人がこのスピーチの内容を理解できたことでしょう。
その場面を想像するだけで、眩暈がしてきます。
翌日に各新聞社に全文が掲載されたそうですが、朝日新聞所蔵の江藤淳の評は、
「(スウェーデンアカデミーは)東と西のあいだに倫理の橋を構築することを期待していたのかもしれない。しかし彼らの見たものは、おそらく黒々としたみぞであり、そのかなたに咲きはじめた一輪の花、むしろつぼみであった。そしてそのつぼみには白く輝く小さな露が寄りそうていた…」というものでした。
本質を突いていると同時に、これは正に私が抱いた感想でもあります。それを見事なまでに美しい日本語で表現してくれていることには心震えます。
川端康成は彼らに分かって貰おうと考えてこれを語ったのではないでしょう。むしろけんか売ってんのか、と取れなくもないです。
でも、こうして時を経ても我々が読める
語って"残す"ことに、大きな意味があったということではないでしょうか。
当時の欧米で、一部の人たちにはエキゾチシズム、オリエンタリズム、そういった物珍しさからくる好奇心はあったかもしれませんが、異文化の日本文学を対等なものとして受け入れる土壌はないに等しかったと思うのです。
川端康成と三島由紀夫の受賞翌日の対談動画を観ていると、(貴重な動画がYouTubeに上がっていました) 彼らもそのことを認識しているようでした。翻訳というところにポイントを置いていました。だからこそ、川端康成の受賞の意義がどれほど大きいか、とも三島由紀夫は語っています。裏事情知ると、ちょっと複雑な気持ちにもなりますが…
西洋コンプレックスの裏返しと見る向きもあるかもしれませんが、私はこのスピーチ全文から、こういう日本だからこそ生まれる文学というものを気負わずに(内心はそうではないでしょうが)、使命感と誇りを持って淡々と語った…
そんな印象を持ちました。
日本が世界に誇る文学作品「源氏物語」の精神的後ろ盾もかなり大きかったでしょう。
そこから東洋の島国の文学は安部公房や大江健三郎などが世界で受け止められ、世界市場で勝負できる作家という意味では村上春樹に流れていくことになるのでしょう。クールなジャパンのクールな文化の端っこに名を連ねているのだと思います。
受賞当時は「雪国」「千羽鶴」「古都」などが評価されたようですが、後年「山の音」「眠れる美女」「掌の小説」などが高く評価されるようになってきたとのこと。
独自性だけでなく、普遍性を持った質の高さが認められるようになったということでしょうか。
「眠れる美女」を私は読んでみたいと思いました。かなりシュールな美文が溢れているみたいですから。
川端康成について、私は余りにも無知でした。
作品は勿論ですが、それらを産んだこの作家の美意識の高さや、本質を見抜く眼力がどれほどのものだったのか、ということに今更のように想いを馳せます。
美術品の目利きでもあったということは、その確かな目の裏付けであると言えるでしょう。
インタビューで三島由紀夫は言っていました。
今の時代に文学が必要とされるのか…と。
50年前ですらそんな危機感があったのです。
いわんや現代社会においてをや…です
いろんな形を取りながらでも構わないと思います。情報ばかりが重宝がられて、時間の豊かさを必要とする文学がやせ細ってしまえば、人間もまた薄っぺらになってしまうのではないでしょうか。
そして当然の如く、引いては人間社会がそうなるでしょう。経済の効率や生産性、成果や答えばかりが占める価値観が幅をきかせて、心は悲鳴を上げるしかないでしょう。
同時代の文学作品だけでなく、人間の感情や精神、思想が言葉で編み込まれた書を読むことは、様々な気づきや学び、悦びや満足が得られ、人として生きる上では、不可欠で贅沢な営みだと改めて思いました。
私にも多くの気づきをもたらしてくれました。
本を読む体力も衰え、忙しくてなかなか時間も取れないのですが、気持ちは何歳になっても開いておきたいと思います。
若いときのようにダイヤモンドを見つけたような新鮮で衝撃的な驚きや気づきはなくても、歳を重ねた今だからこそ掬いとれる砂金をこの手にしたいと思うのです。
文学者としての川端康成は、三島由紀夫を評価し、もしかすると恐れ、美の理解者という点で相通じるものを感じていたような気がします。
本当に近いうちにノーベル賞受賞も大いにあると考えていたところもあったのではないでしょうか。だからあんな厚かましいことまでできた。
「川端康成・三島由紀夫往復書簡」を読めば、
そんな二人の関係性の推移が読み取れるかもしれません。
最後は自決の4ヶ月前に送られた三島由紀夫からの手紙だということです。
あのような三島由紀夫の最期がもたらした衝撃、その後の苦悩は、常人には計り知れないものだったと思われます。
スピーチの中で太宰や芥川の自死を取り上げたとき、そこに”悟り”はないというようなことを言い切っていました。
でも恐らく川端自身の中には常に死が薄い笑みを浮かべていたように私は思うのです。
光だけを見ている人に、こんな思想や美意識は生まれないはずですから。
所蔵する一休の書
仏界入り易く、魔界入り難し
二度も命を捨てようと試みたり、およそ宗教的とは思えない一面をも有していたようですが、魂の解放を求めるような、禅の一休が胸にくるという川端。
究極は真・善・美を目指す芸術家にも「魔界入り難し」の願いや思いが表にあらわれ、裏にひそむのは運命の必然であるだろう、と述べています。
その末期の目には何が映ったのでしょう…
「美しい日本の私」を読んだことから
素晴らしい功績を残した作家の片鱗に少しだけ触れることができた思いです。「少年」だけではここに辿り着けませんでした。
字面だけを追えば、それこそあっという間に読めてしまいます。けれど深く味わおうと思えばいくらでも味わえる名文は、私にとって、居住まいを正したいと思わせてくれる貴重な一冊となりました。
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ここまでおつきあいくださって、ありがとうございます。😊