「普天間の危険性を除去する」……AB政権の、この言葉をきくたびに、「倫理の射程」ということを考えます。
辺野古移設反対……というと、ABくんは、「世界一危険な普天間をそのままにしておいていいのか?」とくる。これ、射程距離のいちばん短い短絡的な倫理で、それを前面に押し出して迫る。
しかし……その奥に、「普天間の人が辺野古に基地を押し付ける構図は、日本が沖縄に基地を押し付ける構図と同じでないの?」という、もっと射程距離の長い倫理があります。これは、「普天間をそのままにしておいていいの?」という倫理と比べると、もっともっと、はるかに根源的なものであるような気がする。
おそらくそれは、「倫理の射程距離」という量的な差ではなく、もっと質的な差なのだと思います。
「普天間を辺野古に移設」というけれど、実際には、まず辺野古に基地ができる。それは、事実としてそうなる。しかし、普天間がなくなるかどうかは未知数。つまり、そっちはまだ事実ではない。両者は、本質的には無関係で、これが関係するかどうかは、米軍と日本国の胸先三寸で決まること。つまりこれは、「事実に依存する倫理」ということになる。
これに対し、「普天間の人が辺野古に基地を押し付ける構図は、日本が沖縄に基地を押し付ける構図と同じ」という方は、いかなる事実にかかわらず成立する論理であって、これは「論理に依存する倫理」ということ。普天間がなくなろうと続こうと、この論理は変わらない。「事実に依存する倫理」は「事実」によってころころ変わるが、「論理に依存する倫理」は「事実」には依存しない。
私たちは、目先の、いかにも倫理っぽくみえる言説に惑わされることなく、「論理的な倫理」に立たなければダメだと思う。「事実的な倫理」は、地域や場所、時代、ダレが権力を持っているかによってころころ変わる。しかし「論理的な倫理」はそういうものに一切影響されることなくつねに人の心に輝く。
その構造からして、行政側は「論理的な倫理」を語ることができません。行政の語る倫理は、つねに「事実的な倫理」になる。それは、すべての人において「一般意志」が成立するのが不可能である以上、政治は「奪った利益の配分の方法」につねに堕するからであって、「論理的な倫理」が本当に成立するのは、「一般意志」においてのみだから。
ということは、どうやっても不可能と思われていた「一般意志」が成立する可能性がある……ということ。「なにが論理的な倫理なのか」ということは、つねにわかるものだと思う。欲得を外せば。(しかし、実は、これがいちばん難しい)
権力を持った側は、「事実の倫理」に酔いやすいという特色がある。人は、自分が、「力のある側」にいることを意識しないとき、最もそのワナに陥りやすい。「世界一危険な普天間の危険性の除去」と言われて、「それはそうだなあ」と思う人は、自分が「どの位置に立っているのか」ということを、いちどとことん考えてみるべきだと思う。
写真は、この間、野外活動研究会の方々と名古屋駅付近を歩いたとき、名古屋駅の少し北の方で見かけた孔子様の像です。五頭身です。スゴイ……






