最近、ABくんが元気で(というか昔から元気ですが)、いよいよ、本格的な「憲法改正」に踏みこもうとしています。これを、どう考えたらいいのでしょうか……ということで、今回は、特に問題になってる9条の考察……といっても、あんまり政治的なものにふみこむのはイヤなので、論理的に考えてみます。
「戦争放棄」と「軍隊を持たない」。この2点が、9条の骨子だと思うのですが、まず、「軍隊を持たない」は、現在完全に違憲状態……というか、戦後しばらくして「警察予備隊」という名目で今の自衛隊の前身ができたときにはっきりと違憲状態になった。これが「自衛隊」という軍隊になって、違憲状態は確定。
いろいろ言葉のアヤでごまかしてますが、「自衛隊」が軍隊であるのは、フツーに考えればダレの目にもあきらか。子供でもわかる。だから違憲。これ、明白です……昔、社会党の党首で、「非武装中立」と言った人がいた。要するに、違憲状態を解消して、自衛隊という名の軍隊を放棄しましょう、と。
そのときは、「オマエ、ナニかんがえとんじゃー!」という意見が大勢だったと思います。このご時勢に、武装を放棄して中立を保とうなんて大甘。架空の夢物語にすぎん!と。その後、社会党が連立政権に加わったとき、総理になった村山さんは自衛隊を認めた。ほうれ、社会党も責任政党になったらやっぱり……と。
このあたり、とても面白いと思います。自衛隊なんぞ解散して非武装貫くぞー!というのも、実は100%不可能なことではない。国民の大多数が賛成すれば「原理的に」できないことではありません。だけど、現実にはやらない。「国の守りは大切」と、やっぱりほとんどの国民は思ってる。特に、今みたいな情勢になっては……
ということで、論理的には100%違憲である自衛隊をなんとか「合憲」にしようと、とんでもないリクツを並べたてる。だけど、そのリクツが「truth」であると思ってる人は、おそらく一人もいない。まことに気持ち悪い。その気持ち悪さを「政治なんてそんなもんさ」とやりすごそうとする人もいれば……
もう、気持ち悪さに耐えられないから、憲法の方を自衛隊に合わせたら?という人もいる。要するに、「軍隊を持たない」という文章をバッサリ削って「自衛のための軍隊を持つ」というふうに書き換えるということですな。そうすれば、憲法と現実とははじめてツジツマが合う……ということで。これでスッキリ。
しかし……しかしですよ、憲法と現実とは、元々「合わない」ようにできてるモンじゃなかろうか……つまり、「憲法と現実とがちがう」と言って悩むのは、本来、論理的におかしいことであって、「憲法と現実は原理的に整合させることができない」という「論理的な真理」を認めれば、すべての矛盾は解消する。
憲法と現実は合わない。これが、論理的真実。私がこう思うに至ったのは、実は、ルソーの『社会契約論』を読んだからでして、この本によれば、主権者が「法」を制定し、行政は、その「法」にのっとって「統治」を行う……と、まず、こういう構造になっているらしい……って、これって、アタリマエじゃないの?
と言われるかもしれませんが……ここからは、前にも書いたことですが、「法」は、デカルト的にいうなら、延長を持たない「思惟」の世界の存在。これに対して、「行政」は、物理的な大きさやエネルギーを持つ、「延長」の世界の存在。したがって、両者は、元々「なんの関係も持つことができない」。
これが、論理的に言って、唯一の「truth」になる回答だと思います。だから「法解釈」というのが出てくる。要するに、元々「思惟」の世界の住人である「法律」によって、現実のこの物理的世界になんらかの影響力を行使しようとすれば、それを「解釈」によってムリヤリ適用していくしかないわけで……
したがって、「法にのっとった行為である」といっても、実は、リンクが完全に切れていて、その都度、行政側の「解釈」によって物理的行為を行っているわけだから、それは「解釈」しだいでどうにでもなる。それは極端な見解じゃないの?という見方もあると思いますが、でも、現実は、やっぱりそうやってる……
ということで、「憲法」なんですが、これは、普通の法律が被統治者(つまり国民)を縛るものであるのに対して、行政側を縛るものだとよく言われます。要するに、普通の法律とは、向いてる方向が逆なんだと……まあ、普通の法律でも、それに基づいて国が訴えられたりすることもよくありますから……
普通の法律が、100%国民だけを縛るものとは言えないと思いますが、憲法の方は、つらつら読んでみますと、やっぱりこれは、国、つまり行政側を縛るものにちゃんとなっている。その時に権力を持つものが、なにをなすべきか、逆に、なにをやっちゃいけないのか……そういうことの基本原理が書いてあります。
したがって、普通の法律と憲法の違いを探ってみますと、普通の法律は、「行政の現場」つまり、行政権を持っている側が、国民に対してそれを行使していく現場から逆算してつくられているような風情があります。この点でいうなら、普通の法律は、「思惟の世界」のものなんだけれど、でも純度において落ちる。
「行政の現場」は、時代により、状況により、そして国際関係によっても、時々刻々と変化していきます。したがって、法律の方もそれに合わせて直していかなければならない……ということで、基本的には「思惟の世界」のものなんだけれど、「延長の世界」に流し目を送って、いわば媚びているような風情がある。
ところが……憲法の方はというと、まったく違うんですね。憲法は、その都度の「現場の状況」に翻弄されるのではなく、あくまで「この国はこういう風にありたいのだ」という「理想」が書かれている。いや、理想というより、「こういう風にあらねばならないのだ」という「必然」が書かれているといってもいい。
こういう点において、憲法は、やっぱり、純粋に「思惟の世界」の住人だと思います。だから、現実の世界、いろいろあって困っちゃう「現場の世界」とは、ある意味無縁といいますか……いや、無縁というよりは、「ホントは現場はこうあるべき」とか「こうあっちゃいけない」と教導していく役割です。
だから、憲法には、思いっきり「現実離れ」した理想が書かれていていいし、むしろそうあるべきだと思います。今の「憲法改正」の論議を聞いていると、どうもこのあたりのことがきちんと認識されていないみたいで、「現実に合ってないから現実に合わせて憲法を改正しよう」などと……
これは、論理的にみれば、とんでもない錯誤ですね。憲法は、普通の法律じゃないんだから、普通の法律みたいに現実に媚を売る必要はまったくなくて、堂々と「理想」を掲げて進めばいい。それは、「その国の理想」なんですが、それを越えて、「人類の理想」に達していていいし、むしろそうあるべきだと思う。
そういう点で、今の「日本国憲法」はよくできてると思います。9条の「戦争はダメ」で「軍隊は持たない」。これは、まさに「人類の理想」であって、世界中の憲法で、ここまでいってるのはあるんでしょうか……私は勉強不足でよく知らないんですが、戦後のあの時期という希有のチャンスでできた「理想に近い憲法」……
なのかもしれません……ということで、「理想に近い」ものなので、それが「現実に合わない」のはアタリマエで、もし現実に合っていたら、もう「世界平和」は達成されているといってもいいのかもしれません……ということを考えてみると、この憲法は、みずからが「思惟の世界」の住人であることをはっきり示している。
日本国憲法にノーベル平和賞を……という提言がありましたが、それもむべなるかな……世界文化遺産でもいいと思いますが、これは、今の時点で考えられる、人類の究極の理想にかなり近づいたことをきちんと述べているものだと思います。そして、だからこそ、今のこの時期に、貴重なんではないか……
じゃあ、現実との乖離はどうするの? ということなんですが、私は、ほっとけばいいと思います。行政側はいろんな「解釈」を繰りだして、なんとか自分たちの都合のいいように状況を持って行こうとしているみたいですが、それはそれで、「その解釈、オカシイんじゃないの?」と言いつづけていけばいいのでは。
AB政権の「解釈」も、最近はどんどん「進化」して、まるでアクロバットのようになってきている。それはそれでコワいのだけれど、その「アクロバット具合」が、「人類の理想」からいかにかけ離れたものであるか……それが、今の憲法がそのまま保たれていることによって、ダレの目にもはっきりとわかる。
要するに、憲法は、純粋に「思惟の世界」の住人なんだから、「解釈の奇妙さ」が如実に晒されることになるわけで……この憲法を、普通の法律みたいに「現実」によって汚染させてしまうと、もう「現実の汚れ具合」そのものが不可視になっていく。真っ白なものがあるからこそ、薄いグレーもちゃんとわかるわけで……
「理想の基準原器」を「現実」によって汚してしまえば、「現実の汚れ具合」を判断する基準そのものがなくなってしまって、これはタイヘンにまずいことだと思います。だから、「理想」はあくまで最高地点に掲げて、それによって生じる「現実との落差」にみんなで苦しむ……これが、やっぱりまともな姿ではないか。
「思惟の世界」と「延長の世界」は、もともとなんのカンケイも持たない……にもかかわらず、「思惟の世界」に理想を掲げて、それによって「延長の世界」をなんとかそこに近づけていこうとする……考えてみれば、人間というのはふしぎな生物だと思いますが(他の生物はそんなことは考えもしないでしょう)……
でも、これが、人間という種のあり方である以上、ここを離れられない。「理想」を「現実」に近づけてハードルを低くする……そうすれば、「乖離の苦しみ」から逃れられて、その場は少し楽になる……こういうABくん的思考法もあるんですが、でも、それをやると、「現実」はますます悲惨なこととなり……
その道は、おそらく、よりタイヘンなところに人類を導く。先の大戦もその例だったかもしれませんが、「うわー、こんなに悲惨な世界をつくっちゃったぜ……」ということで、人は、その破局から学んで、結局は理想を高く掲げる道に戻らざるをえない……まあ、これは、人の業といえばそれまでかもしれないけれど……
でも、やはり、そこには、他の生物にはない、なにか輝きのようなものがあるんじゃないかと思います。その道は、結局、どこを通ってもタイヘンなのかもしれませんが、今、日本というこの国が、かなり理想に近い?「憲法」を持っているということは、やっぱり希有な時点にわれわれはいるのじゃなかろうか……と。
日本国憲法も、余命あとわずか……という感じですが、現実に合わせようとする錯誤によって「改正」が行われてしまっても、今の理想に近い状態の憲法は、なんらかの記録としては残る。ああ、かつて、こういう憲法を持ってた人たちがいたんだ……と。それはそれで、未来に向けて、一つの道標になるのかもしれません。
ということで、今回は、今の日本の憲法のことを、特に9条にかんして、ちょっと考えてみました……追記ですが、今、現行憲法が、時代や現実に合わなくなったという考え方が大きくなっているようですが、私はそうは思いません。今の憲法が理想に近いものであるならば、おそらくそれは、昔も、当時の現実には合わなかった。
ただ、日本は、「アメリカの影」によって守られてきたという状況が長く続いたので、それが空気や水みたいに「日常性」を獲得してしまって、その結果として、「乖離」があんまりめだたなかったということでしょう……ということは、逆に考えれば、「乖離」が盛んにいわれるようになった今の状況は……
これまで、空気や水のように日常に近くなっていた(沖縄ではそうではなかったけれど)「アメリカの影」を人々が意識しはじめ、さらにその影自体が薄くなってきているという状況を表わしているのでしょう。ABくんみたいに国を預かる人々にとっては、その状況というのはけっこう深刻で……
だから、あんな言動になっていくんだと思います。で、それをもっともだという人もどんどん増えてきている。そういう点では、日本は、好むと好まざるにかかわらず、「アメリカの温室」から出る、出なければならないときを迎えているんでしょう。で、今の憲法との乖離はますます大きくなってしまう……
でも、だからといって、憲法の方を変えるというのは、論理的にいって、本末転倒もはなはだしい。いくらギャップに苦しんでも、それはそのまま、日本という国の歩む姿なのだから、しかたがない。理想を捨てる道は戦いの放棄であって(このあたり、言葉が真逆になっておもしろいですが)、安楽死に至る道……
今の日本は、そういう道を歩みはじめているのは確かだと思います。それは、ABくんというヘンな指導者の影響はもちろん大きいけれど、それをかなりの国民が支持しているのも事実です。まあ、先の戦争とその影響をほとんど蒙っていない世代が多くなったということがあるのかもしれませんが……
一旦理想を捨てたら、道は無間地獄に続く……それよりは、今、いくらギャップに苦しんでも、その苦しみ自体を「意味のあるもの」としてちゃんと見て、理想だけは捨てない……そういう道が、私はいいんじゃないかと思うのですが……写真は、うちの前の道の小さな水たまりに張った氷です。