沖縄には、なんども行った。遊びに行ったことは一度もないけれど……いろんなところを見せてもらいました。

沖縄の海は青い。しかし、それは、悲しみの青だ。

自分たちが生まれて育った場所が、自分たちのものではない……しかし、実は、日本全土がそう。

戦争に負けるというのは、こういうことなのか……70年が過ぎても、アメリカにはさからえない。

政府は、自国民を向いていない。向いているのは、戦いに勝ったアメリカ。

沖縄で起きたことは、日本国内のどこでも起きる。

自分たちのところでそれが起きたとき……福島のように、はじめてそれがわかる。

日本は、自由な国なのか……これからそれが、だれの身にも起こるだろう。

日本はばらばらになり、漂流をはじめている。しかし、切実に感じている人はまだ少ない。

もうじき花見。人は、束の間の開放感を味わえる場所をさがすのだろうか……

黒い水が、あふれようとしている……


*写真は、この間、野外活動研究会の人たちと歩いた名古屋駅前。大名古屋ビルヂングの建替え工事。リニアねらいで、名古屋駅周辺の東京化が加速されています。人は、別の街に暮らし、別の人になる。そんなに金が欲しいのだろうか……人は、なんのために生きるのだろうか。「文明のおろかさ」というのはカンタンだけれど、それではなにも解決しない気がする。自由でありたいという錯覚。「幻想」は堅固なかたちをまとって、人の上を覆う。「死」しか、それから逃れるすべのないところへ自分自身を追いこむ。まことにばかげていると思うけれど……


憲法について、もう少し考えてみます……気になるのは、やっぱりルソーさんの「一般意志」のモンダイ。人は、政治家に、なにを求めるのか……「議員を使う」という、イヤな言い方があります。正攻法ではなかなかモンダイが解決しないとき、「議員を使う」。これ、厳密にいえば犯罪なんじゃ……でも、けっこうやってるケースは多いのかな??……犯罪という自覚なしに、金はかかるけど便利……みたいな感じでやってる人はやってるんでしょう。

日本国憲法の第15条2項には、つぎのようにあります。「すべての公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。」国会議員や地方議会の議員が「公務員」にあたるのかどうかは、いろんな見方があるようですが、いまだにそこはきっちり決めずにグレーゾーンにしているところが、もしかしたらこの第15条2項とのからみなのかもしれないな……とも思ったりします。まあ、私は法律の専門家じゃないので、そういう気がするとしかいえませんが。

もし、議員さんが(国会議員にせよ地方議会の議員さんにせよ)公務員であるとするなら、特別職の公務員ということになるのでしょうが、それでも、この第15条2項にひっかかってくる。つまり、彼(または彼女)は、特定の個人や団体の利益代表みたいな動き方をしてはいけませんということで、それをやったら憲法違反……この場合、「全体」という言葉は、当然「日本国民全体」という意味でしょうから、国会議員はもちろん、地方議会の議員さんも、国民全体のためにしか動けない?

こんどは、議員さんを選ぶ国民の側のことを考えてみます。国民は、一体なにを基準にして投票するのか……といえば、それは明確に、「自分たちに<利>をもたらしてくれる人に入れよう」ということです。まあようするに、投票行動によって、「自分たちのために使える議員」を製造しましょう……ということで、みんな投票所に行く。これは、投票行動をする人々の大半がそうだと思う。ということは、過激な言い方をすれば……

自分が入れる候補者が、憲法第15条2項を冒してくれることを期待して投票するということになります。うーん、これってどうなのよ……ということですが、保守系候補者を支持する人も、革新系候補の支持者も、その他候補の支持者も、その点ではまったく変わりません。私が住んでるところが村だったときには、村会議員の選挙区が12あって、常に候補者が13人立ちました。これって、どういうことだろう?とふしぎだったんですが……

まあ要するに、各地域で利益代表が一人ずつ立って、全員当選するようになってるんだけれど、それでは「選挙」の意味がないので、「ダミー候補」を一人つくってたんじゃないかと……で、その人を除いてめでたく全員が当選して、各候補は自分の地区に道を造ったり河を整備するための予算獲得に精を出す……だれも、「村全体」のことなど考えず、ひたすら「オレの地区」の繁栄のために働く。だって、地区の人にそれを要求されているから……

これは、日本全体の縮図だなあ……と思いました。市町村会議員でも、県会議員、国会議員でも、この構図はほとんど変わらない。地区の利益代表、あるいはいろんな団体の利益代表として、「議員さん」は活動する。まさに「一部の奉仕者」そのものであって、「全体の奉仕者だなあ……」と感じる議員さんって、いないわけです。というか、そもそも「全体」の方が、個人や地区や団体として分割されていて、それぞれに「自分たちに<利>があるように」としか考えていない。

これは……ルソーのいう「一般意志」からはほど遠い状態ですね。まさに「特殊意志」の戦場であって、いろんな「特殊意志」を代表して、議員さんたちは暗躍?する。まあ、堂々と「明躍」する場合の方が多いのかもしれませんが、憲法第15条2項の「すべての公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。」という条文には完全に違反した状態だ、だから、議員さんを「公務員である」と解釈してしまうとやばいのか……ホントに、そう思ってしまいます。

政治とカネのモンダイが、最近TVをにぎわしていますが、「カネ」が動いた時点でNGになるというのもヘンな話だなあ……と私は思います。もう、有権者の投票行動自体が限りなくグレーゾーンなんだから、それによって製造された議員さんたちは、最初からグレーそのものではないか……で、そのグレーの画面に、「カネ」という黒い点が結晶化した瞬間に、「ハイ、あんたダメよ!」ということになる。もう、こうなると、運不運? いや、それをいっちゃ、お叱りを……

受けるかもしれませんが、選ぶ方も選ばれる方も、「一般意志」からはるか離れたところで「特殊意志」の泥仕合をやってる状況を見てると、ホントにそう思います……本来であれば、有権者の方が、選ぶ際には「一般意志」を心がけなければならないのでは? そうしないと、ルソーのいう「社会契約」は成立しないのでは。主権者たる国民は、自分たちだけの<利>を考えるのではなく、常に「全体」を考えて、投票行動に臨まなければならない……

現実に考えると、そんなことってありえない……と思ってしまうんですが、ここで、前から書いてる、「思惟」と「延長」は本来カンケイすることができない……という、あのふしぎな法則?の登場です。本来、法律をつくる議会の構成員である議員さんたちは、法律が「思惟の世界(精神界)」のものである以上、そのことを常に考えて行動すべきであり、その議員さんたちを選ぶ有権者も、また投票行動にあたっては、そのことを第一に考えなければならない。

ところが、実際の投票行動に際しては、「延長の世界(物質界)」で自分たちに利益をもたらしてくれる候補者を選ぼうということしか考えない。要するに、「一般意志」というものは、「思惟・精神の世界」のものであるべきなんですが、それをさらっと放棄して、「延長・物質の世界」にどっぷり浸った「特殊意志」に対して「利」をもたらしてくれる人を選ぶんだ……としか考えない。これって、みごとに「一般意志」の放棄であって、もうこの投票の時点で、ルソーのいう「社会契約」は成立していません。

私は、憲法は、絶対に変えてはならないとは思いませんが、もし変えるのであれば、その方向性は、必ず「特殊意志をより少なく、一般意志をより大きく」する方向に変えなければダメだと思います。なぜなら、憲法というものは、先に書きましたように、「思惟の世界の純粋住人」なので、よりその理想状態に近づけるように行う変更しか意味を持たず、逆の方向、つまり「特殊意志」により接近させるような方向への変更は、「憲法の自殺」でしかないと思います。

したがって……現在の条文の書き方では議員さんの身分に「解釈の余地」が残る第15条2項を、「<国会議員および地方議会議員を含む>すべての公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。」という風に、<>部分を追加するように書き換えるのは、「特殊意志をより少なく、一般意志をより大きく」する方向なので正解だと思いますが、逆に、「<国会議員および地方議会議員を除く>すべての公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。」とすると……

これは、「特殊意志をより大きく、一般意志をより少なく」ということで、逆方向です。すなわち、憲法が「思惟の世界」を出て「延長の世界」に汚されていく方向で、名のみのものと成り下がる……では、あの9条はどうなのかといいますと……現行の日本国憲法の9条は、驚くべきことに、現時点でこれ以上ないくらい「全体」をきちんと担保しようという心意気?にあふれてます。もう「全体」が、日本国民全体を越えて、「人類全体」というスケールにまで及んでいる……

いや、これは、おそれいりました。たぶんここが終局地点で、これ以上の全体を考えようとすると、「人類」を抜け出て、「地球上の全存在」から「地球そのもの」にまで至る……ホントは、そこを目指すべきと私は思いますが、現状の人類の状態では、そこまではまだまだ大きなギャップがある……とすれば、日本国憲法の9条(さらに加えて前文)は、現在考えられる範囲で、もっとも「一般意志」を端的に表現した、これ以上は考えられないすばらしい条文であると……

日本国憲法第9条
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
・2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

前文(制定文)から
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

うーん……これぞ、「一般意志」そのものではないか……と、いたく感動するのであります。人によっては「えそらごと」と思う方もおられるかもしれませんが、「思惟の世界」と「延長の世界」が「まったくカンケイを持つことができない」ということを考えたとき、この文章はがぜん生きてきます。そうか……そうだったのか……と思いますね。「憲法」は完全に「思惟の世界」の住人なんだから、それを「延長の世界」の特殊意志で汚してはいけない……

それをやってしまうと、そこで「意味」がなくなる……あとは、その都度、権力を持った「一部」に、自分たちのいいように「書き換えられて」、「思惟の世界」における「真」をどんどんと失ってしまいます。さて、これから、どうなるのでしょうか……今日の写真は、ハスの実が入っていた顎となにかの球根。それに百合の実でしょうか……うちの玄関に、おくさんが置きました。春になれば、またこれを植えて、夏に咲くのを楽しみます。人の生活は、こんな感じで続いていく……

最近、ABくんが元気で(というか昔から元気ですが)、いよいよ、本格的な「憲法改正」に踏みこもうとしています。これを、どう考えたらいいのでしょうか……ということで、今回は、特に問題になってる9条の考察……といっても、あんまり政治的なものにふみこむのはイヤなので、論理的に考えてみます。

「戦争放棄」と「軍隊を持たない」。この2点が、9条の骨子だと思うのですが、まず、「軍隊を持たない」は、現在完全に違憲状態……というか、戦後しばらくして「警察予備隊」という名目で今の自衛隊の前身ができたときにはっきりと違憲状態になった。これが「自衛隊」という軍隊になって、違憲状態は確定。

いろいろ言葉のアヤでごまかしてますが、「自衛隊」が軍隊であるのは、フツーに考えればダレの目にもあきらか。子供でもわかる。だから違憲。これ、明白です……昔、社会党の党首で、「非武装中立」と言った人がいた。要するに、違憲状態を解消して、自衛隊という名の軍隊を放棄しましょう、と。

そのときは、「オマエ、ナニかんがえとんじゃー!」という意見が大勢だったと思います。このご時勢に、武装を放棄して中立を保とうなんて大甘。架空の夢物語にすぎん!と。その後、社会党が連立政権に加わったとき、総理になった村山さんは自衛隊を認めた。ほうれ、社会党も責任政党になったらやっぱり……と。

このあたり、とても面白いと思います。自衛隊なんぞ解散して非武装貫くぞー!というのも、実は100%不可能なことではない。国民の大多数が賛成すれば「原理的に」できないことではありません。だけど、現実にはやらない。「国の守りは大切」と、やっぱりほとんどの国民は思ってる。特に、今みたいな情勢になっては……

ということで、論理的には100%違憲である自衛隊をなんとか「合憲」にしようと、とんでもないリクツを並べたてる。だけど、そのリクツが「truth」であると思ってる人は、おそらく一人もいない。まことに気持ち悪い。その気持ち悪さを「政治なんてそんなもんさ」とやりすごそうとする人もいれば……

もう、気持ち悪さに耐えられないから、憲法の方を自衛隊に合わせたら?という人もいる。要するに、「軍隊を持たない」という文章をバッサリ削って「自衛のための軍隊を持つ」というふうに書き換えるということですな。そうすれば、憲法と現実とははじめてツジツマが合う……ということで。これでスッキリ。

しかし……しかしですよ、憲法と現実とは、元々「合わない」ようにできてるモンじゃなかろうか……つまり、「憲法と現実とがちがう」と言って悩むのは、本来、論理的におかしいことであって、「憲法と現実は原理的に整合させることができない」という「論理的な真理」を認めれば、すべての矛盾は解消する。

憲法と現実は合わない。これが、論理的真実。私がこう思うに至ったのは、実は、ルソーの『社会契約論』を読んだからでして、この本によれば、主権者が「法」を制定し、行政は、その「法」にのっとって「統治」を行う……と、まず、こういう構造になっているらしい……って、これって、アタリマエじゃないの?

と言われるかもしれませんが……ここからは、前にも書いたことですが、「法」は、デカルト的にいうなら、延長を持たない「思惟」の世界の存在。これに対して、「行政」は、物理的な大きさやエネルギーを持つ、「延長」の世界の存在。したがって、両者は、元々「なんの関係も持つことができない」。

これが、論理的に言って、唯一の「truth」になる回答だと思います。だから「法解釈」というのが出てくる。要するに、元々「思惟」の世界の住人である「法律」によって、現実のこの物理的世界になんらかの影響力を行使しようとすれば、それを「解釈」によってムリヤリ適用していくしかないわけで……

したがって、「法にのっとった行為である」といっても、実は、リンクが完全に切れていて、その都度、行政側の「解釈」によって物理的行為を行っているわけだから、それは「解釈」しだいでどうにでもなる。それは極端な見解じゃないの?という見方もあると思いますが、でも、現実は、やっぱりそうやってる……

ということで、「憲法」なんですが、これは、普通の法律が被統治者(つまり国民)を縛るものであるのに対して、行政側を縛るものだとよく言われます。要するに、普通の法律とは、向いてる方向が逆なんだと……まあ、普通の法律でも、それに基づいて国が訴えられたりすることもよくありますから……

普通の法律が、100%国民だけを縛るものとは言えないと思いますが、憲法の方は、つらつら読んでみますと、やっぱりこれは、国、つまり行政側を縛るものにちゃんとなっている。その時に権力を持つものが、なにをなすべきか、逆に、なにをやっちゃいけないのか……そういうことの基本原理が書いてあります。

したがって、普通の法律と憲法の違いを探ってみますと、普通の法律は、「行政の現場」つまり、行政権を持っている側が、国民に対してそれを行使していく現場から逆算してつくられているような風情があります。この点でいうなら、普通の法律は、「思惟の世界」のものなんだけれど、でも純度において落ちる。

「行政の現場」は、時代により、状況により、そして国際関係によっても、時々刻々と変化していきます。したがって、法律の方もそれに合わせて直していかなければならない……ということで、基本的には「思惟の世界」のものなんだけれど、「延長の世界」に流し目を送って、いわば媚びているような風情がある。

ところが……憲法の方はというと、まったく違うんですね。憲法は、その都度の「現場の状況」に翻弄されるのではなく、あくまで「この国はこういう風にありたいのだ」という「理想」が書かれている。いや、理想というより、「こういう風にあらねばならないのだ」という「必然」が書かれているといってもいい。

こういう点において、憲法は、やっぱり、純粋に「思惟の世界」の住人だと思います。だから、現実の世界、いろいろあって困っちゃう「現場の世界」とは、ある意味無縁といいますか……いや、無縁というよりは、「ホントは現場はこうあるべき」とか「こうあっちゃいけない」と教導していく役割です。

だから、憲法には、思いっきり「現実離れ」した理想が書かれていていいし、むしろそうあるべきだと思います。今の「憲法改正」の論議を聞いていると、どうもこのあたりのことがきちんと認識されていないみたいで、「現実に合ってないから現実に合わせて憲法を改正しよう」などと……

これは、論理的にみれば、とんでもない錯誤ですね。憲法は、普通の法律じゃないんだから、普通の法律みたいに現実に媚を売る必要はまったくなくて、堂々と「理想」を掲げて進めばいい。それは、「その国の理想」なんですが、それを越えて、「人類の理想」に達していていいし、むしろそうあるべきだと思う。

そういう点で、今の「日本国憲法」はよくできてると思います。9条の「戦争はダメ」で「軍隊は持たない」。これは、まさに「人類の理想」であって、世界中の憲法で、ここまでいってるのはあるんでしょうか……私は勉強不足でよく知らないんですが、戦後のあの時期という希有のチャンスでできた「理想に近い憲法」……

なのかもしれません……ということで、「理想に近い」ものなので、それが「現実に合わない」のはアタリマエで、もし現実に合っていたら、もう「世界平和」は達成されているといってもいいのかもしれません……ということを考えてみると、この憲法は、みずからが「思惟の世界」の住人であることをはっきり示している。

日本国憲法にノーベル平和賞を……という提言がありましたが、それもむべなるかな……世界文化遺産でもいいと思いますが、これは、今の時点で考えられる、人類の究極の理想にかなり近づいたことをきちんと述べているものだと思います。そして、だからこそ、今のこの時期に、貴重なんではないか……

じゃあ、現実との乖離はどうするの? ということなんですが、私は、ほっとけばいいと思います。行政側はいろんな「解釈」を繰りだして、なんとか自分たちの都合のいいように状況を持って行こうとしているみたいですが、それはそれで、「その解釈、オカシイんじゃないの?」と言いつづけていけばいいのでは。

AB政権の「解釈」も、最近はどんどん「進化」して、まるでアクロバットのようになってきている。それはそれでコワいのだけれど、その「アクロバット具合」が、「人類の理想」からいかにかけ離れたものであるか……それが、今の憲法がそのまま保たれていることによって、ダレの目にもはっきりとわかる。

要するに、憲法は、純粋に「思惟の世界」の住人なんだから、「解釈の奇妙さ」が如実に晒されることになるわけで……この憲法を、普通の法律みたいに「現実」によって汚染させてしまうと、もう「現実の汚れ具合」そのものが不可視になっていく。真っ白なものがあるからこそ、薄いグレーもちゃんとわかるわけで……

「理想の基準原器」を「現実」によって汚してしまえば、「現実の汚れ具合」を判断する基準そのものがなくなってしまって、これはタイヘンにまずいことだと思います。だから、「理想」はあくまで最高地点に掲げて、それによって生じる「現実との落差」にみんなで苦しむ……これが、やっぱりまともな姿ではないか。

「思惟の世界」と「延長の世界」は、もともとなんのカンケイも持たない……にもかかわらず、「思惟の世界」に理想を掲げて、それによって「延長の世界」をなんとかそこに近づけていこうとする……考えてみれば、人間というのはふしぎな生物だと思いますが(他の生物はそんなことは考えもしないでしょう)……

でも、これが、人間という種のあり方である以上、ここを離れられない。「理想」を「現実」に近づけてハードルを低くする……そうすれば、「乖離の苦しみ」から逃れられて、その場は少し楽になる……こういうABくん的思考法もあるんですが、でも、それをやると、「現実」はますます悲惨なこととなり……

その道は、おそらく、よりタイヘンなところに人類を導く。先の大戦もその例だったかもしれませんが、「うわー、こんなに悲惨な世界をつくっちゃったぜ……」ということで、人は、その破局から学んで、結局は理想を高く掲げる道に戻らざるをえない……まあ、これは、人の業といえばそれまでかもしれないけれど……

でも、やはり、そこには、他の生物にはない、なにか輝きのようなものがあるんじゃないかと思います。その道は、結局、どこを通ってもタイヘンなのかもしれませんが、今、日本というこの国が、かなり理想に近い?「憲法」を持っているということは、やっぱり希有な時点にわれわれはいるのじゃなかろうか……と。

日本国憲法も、余命あとわずか……という感じですが、現実に合わせようとする錯誤によって「改正」が行われてしまっても、今の理想に近い状態の憲法は、なんらかの記録としては残る。ああ、かつて、こういう憲法を持ってた人たちがいたんだ……と。それはそれで、未来に向けて、一つの道標になるのかもしれません。

ということで、今回は、今の日本の憲法のことを、特に9条にかんして、ちょっと考えてみました……追記ですが、今、現行憲法が、時代や現実に合わなくなったという考え方が大きくなっているようですが、私はそうは思いません。今の憲法が理想に近いものであるならば、おそらくそれは、昔も、当時の現実には合わなかった。

ただ、日本は、「アメリカの影」によって守られてきたという状況が長く続いたので、それが空気や水みたいに「日常性」を獲得してしまって、その結果として、「乖離」があんまりめだたなかったということでしょう……ということは、逆に考えれば、「乖離」が盛んにいわれるようになった今の状況は……

これまで、空気や水のように日常に近くなっていた(沖縄ではそうではなかったけれど)「アメリカの影」を人々が意識しはじめ、さらにその影自体が薄くなってきているという状況を表わしているのでしょう。ABくんみたいに国を預かる人々にとっては、その状況というのはけっこう深刻で……

だから、あんな言動になっていくんだと思います。で、それをもっともだという人もどんどん増えてきている。そういう点では、日本は、好むと好まざるにかかわらず、「アメリカの温室」から出る、出なければならないときを迎えているんでしょう。で、今の憲法との乖離はますます大きくなってしまう……

でも、だからといって、憲法の方を変えるというのは、論理的にいって、本末転倒もはなはだしい。いくらギャップに苦しんでも、それはそのまま、日本という国の歩む姿なのだから、しかたがない。理想を捨てる道は戦いの放棄であって(このあたり、言葉が真逆になっておもしろいですが)、安楽死に至る道……

今の日本は、そういう道を歩みはじめているのは確かだと思います。それは、ABくんというヘンな指導者の影響はもちろん大きいけれど、それをかなりの国民が支持しているのも事実です。まあ、先の戦争とその影響をほとんど蒙っていない世代が多くなったということがあるのかもしれませんが……

一旦理想を捨てたら、道は無間地獄に続く……それよりは、今、いくらギャップに苦しんでも、その苦しみ自体を「意味のあるもの」としてちゃんと見て、理想だけは捨てない……そういう道が、私はいいんじゃないかと思うのですが……写真は、うちの前の道の小さな水たまりに張った氷です。