~あとがきと言うか作品解説というかなんていうかだらだらと書いたもの(反転)~
高校の地学の先生が
「星も人間も同じ元素からできている。自分たちは星と同じ成分でできている」
と言っていたところからこの話は始まったし、このタイトルの由来もここにある。
昔から宇宙の話が好きな当方は、大学受験に必要のない地学の時間が大好きだった。
けれども相反して宇宙に対しては嫌いな話もある。それが隕石である。
1999年。当時小学1年生である。
今でも覚えている。
たけしの万物創造というアンビリバボーみたいな番組で、その特集が組まれそれで恐怖に慄いたことを。
当時の私の同級生の同業者がこう書いたのを思い出す。
「私もあの時、隕石が落ちないよう子供ながらにお祈りをしていた。
けどどっちに向けばいいかわからないからに東西南北全部の方位に祈り倒した。
当時傍目から見たらおかしな光景だろうが、今でも思う。
あの時祈り倒していたから隕石は落ちなかった。」と。
私にとっては正直今でも笑い事ではない。
情報主体がテレビや週刊誌からインターネットに変わった今でも
隕石での人類全滅予言の噂は15年たっても未だに世を騒がせる。
高校2年生のとき、隕石が落下するという噂が立ち上った。
私はそのことを本気で信じた。
小学校1年生のときのあの漠然とした恐怖よりも、物心ついた確実なそれは、確実な恐怖を掻きたたせた。
その日はその日一日を大切に生きようと思った。全てのことを大切にしようと思った。
しかしもちろん予言の時刻になっても隕石は落ちてこなかった。
大学1年生のときも噂は立ち上り、それを完全に信じた。
2012年5月28日は自分にとって気が気でない一日だった。
なぜここまで確実な日にちを覚えているか?
この日、自習室でこの隕石の恐怖に慄く気持ちをこの「星の子」にぶつけたのだ。
そして保存したのがこの日にちだった。このときの気持ちを私は良く覚えている。
隕石をやり過ごしたら、これはこの作品に使えると思ったからだ。
この日の気持ちは不思議だった。
隕石の話題はツイッターレベルでさほど周囲に知られたものではなかった。
つまり自分だけが滅亡の予言を知っている。
誰かに言うべきか?怖いと話すべきか?
しかし、怖がることは、最早大人気なくてできなかった。
ツイッターでは、
「隕石が落ちれば明日会社に行かなくていい」「地球x隕石ハァハァ」というツイートばかりが並んでおり、
真に受けた本心をツイートできる空気ではなかった。
このときの自分と周囲との世界の違いともいうべきか、
自分だけ時が止まったかのような奇妙な不整合は、言いようもない不自然さを心に残していった。
きっと預言者はこのような気持ちをもって毎日生活しているのかとおもうと、気が遠くなった。
当事者にならないとわからないものがあるんだな。
現実の気持ちは想像を軽く超えることを実感した。
この予言を知らなければどれだけ幸せだっただろうか?バカならきっと楽だっただろうな。
そういろいろとその止まった世界のなかで考えた。
この日の帰りは5時か6時くらいで少し暗かった。家に帰ると8時くらい。腹が減るな。
そのとき母に電話した「今日の晩御飯は何?」
そして通話を終えたとき、心からなにかが崩れるような感覚があった。
この日のメモにこう書いてある「不安は安心したときに気づくもの」「気持ちは比較して気づくもの」。
99年の小学生時代から今に至るまでずっとこう思っている。
どうして隕石落下とか、人類滅亡の予言とかを、テレビのバラエティー番組をわざわざゴールデンの時間に流すのだろう。
わざわざそんな恐怖を煽るようなことを言う必要があるのだろうか?
その答えは三者三様だろう。
テレビマンに言わせれば、不安は人の目線を集める。数字が取れるから。
週刊誌が過激な見出しを並べるのと同じ理由である。
ただ、私はこう思う。高校2年生のあの記憶、あの気持ちからこう思う。
単調な日常の中に急激に訪れた非日常は一日一日を明確かつ新鮮にし、
一日一日を振り返る手立てになるからだ、と。
つまり、明日死ぬかもしれないと思えば一日一日を大切に過ごそうという気持ちにしてくれる。
いかに一日一日を雑に生きてきたかを気づかせてくれる。
そのためにこれはあるのではないか。と。
唐津の気持ちは私の気持ちである。
怖くてもそれをいえば笑われる。
だから平気なフリをしなければならない。
けどそれをバカにしてくるやつらも怖いんじゃないか?
怖いからこそそういうことをいえるんじゃないか?
ほんとうに怖いのを知らないでバカにしてるやつもいるだろうけど。
あのノストラダムスだから、本当に落ちるかもしれない。
オウムの事件もあった。
景気も下を向いているあの99年のダウナーな空気のなか、
進路もあいまいでこれからどう未来が動くかわからない世の中で生きる高校生はどうおもったのか。
それを想像して書いてみた。
メールも普及していない当時、
心を慮るには今よりもツールが少ない時代に、仲違いはどう解消されるのか?
本当の恐怖とそれに慄く自分の心に対峙したときどう成長を見せるのか?
それを唐津ら高校生4人に託してみた。
そして、この結果、この結末を迎えたのだ。