Sarah Anne Carter, Object Lessons: How Nineteenth-Century Americans Learned to Make Sense of the Material World, Oxford University Press, 2018.

 

 

なんでこういう本が今まで出版されなかったのか、という本です。このブログのテーマの一つにしているペスタロッチ主義のみならず、アメリカ教育史、そして広く教育史にとっての重要文献です。調査もしっかりしていて、よくぞここまで調べてくれたという、たいへんありがたい本で、参考文献など資料価値も高いです。

 

タイトルにある object lesson というのは、今で言う体験学習とか視聴覚教材を使った学習の元祖です。先生の説明や書物など、ただ言葉で学ぶのではなく、実物の観察を通じて学ぶ方法です。ペスタロッチ(Johann Heinrich Pestalozzi, 1746-1827)が考案したとまでは言いませんが、ペスタロッチ主義者たちが広めたというのは間違いないところでしょう。ただ語彙を学ぶだけではなく、ペスタロッチが「暗い直感から明晰な概念へ」と言ったように、雑多な物を整理して理解したり、観察や思考の方法を学ぶなど、当時の教育水準を考えれば、かなり先進的かつ野心的な試みでした。

 

イギリスの本国および植民地学校協会(Home and Colonial Schools Society)から学んだ方法を、オスウィーゴ師範学校(Oswego Normal School, 現在の State University of New York, Oswego)のシェルドン校長が中心になって広めました。1860年代から70年代くらいのことです。のちに形骸化してしまったことと、ヘルバルト主義など新たな方法が広まったことで衰退し、その後は形式的で表面的な方法の代名詞のように言われることがあるのですが(例えばジョン・デューイが『学校と社会』でそういう評価をしています)、ごく初歩的な読み書きができれば教師になれた時代に、教授方法として、教師の専門性を確立するという歴史的意義があったと思います。

 

実物教授というものは、知識を与えるためにもくろまれたものであるが、その実物教授をどれほど頻繁にやってみたところで、農場やガーデンで実際に植物や動物と共に生活し、その生活をしているうちに身につき、その動植物に精通するような知識には、とうてい代わりうるものではない。学校でどれほど感覚器官の訓練をしたところで、それがただの訓練のために採り容れられたものであるかぎり、その種の訓練は、日頃よくわかっている仕事に馴染み、興味をもつことからもたらされ、快適に充実した感覚生活とは、とうてい比べようもない。(市村尚久訳『学校と社会・児童とカリキュラム』, 講談社, 2013, p.68)

 

日本にはまず、御雇外国人の一人マリオン・スコット(Marion McCarrell Scott, 1843-1922)が伝えました。その後、オスウィーゴに留学した高嶺秀夫もこれを学び、東京高等師範学校などで教えました。当時 object lesson には、「庶物指教」「実物教授」などの訳語があてられました。

 

さて、今書いたような内容は教育史のテキストなどによく紹介されているのですが、では、実際どのような「実物(object)」を用いて教えたのかとか、具体的にどんな方法だったのかとなると、詳しく説明しているテキストが見あたりません。要するに、私たちの持っているオブジェクト・レッスンの知識は、又聞き程度なのです。著者のカーター氏はキュレーターをしている人らしく、アメリカ中の(と言って差し支えないと思います)図書館や博物館をあたって、実際に使われた物の写真なども集め、オブジェクト・レッスンの実像を描いて見せてくれています。本文は140ページ程度と短いのですが、内容は濃く、ペスタロッチ主義、それをイギリスに伝えたメイヨー兄妹(Charles and Elizabeth Mayo)、そしてオスウィーゴ師範学校の概要から、オブジェクト・レッスンがどこでどのように展開されたのかまで(例えば黒人やネイティブ・アメリカンの師範教育を行ったハンプトン・インスティテュートなどや、カタログ販売が出てくる前のトレーディング・カードにおける使用などまでも)調べ上げています。

 

私が感心し(偉そうに書いてすみません)同意するのは、オブジェクト・レッスンが単なるイラストレーション、つまり語彙を覚えやすくするために実例を用いるというだけでなく、ものの観察の仕方や概念的思考を鍛える方法であったと喝破しているところです。例えば、こう言っています:

 

In an ideal lesson, their [the teachers'] aim would be to lead a classroom of students from examining an object or image to writing a composition about it. Along the way, they worked to develop students' perceptive skills, reasoning ability, and vocabulary. (p.1)

 

すると、デューイは批判的でしたが、実のところ、オブジェクト・レッスンは、デューイや進歩主義者達がやろうとしていたこととほぼ同じことを目指していたか、少なくとも進歩主義教育と連続性を持つ教育理念・方法を備えていたということになります。(この辺はもう少し詳しく調べてみたいと思います。)

 

オブジェクト・レッスンは、オスウィーゴの教員の中にも批判的な者が出たくらい、確かに形骸化していたところがあるようです。また、教員により理解や技術の程度に差があったようです(p.50)。オスウィーゴ師範学校の歴史を書いたロジャースは、教員の一人ヘンリー・ストレイト(優秀な教員だったらしいのですが、のちにフランシス・パーカーの Cook County Normal School に移ります。この辺りも、進歩主義との連続性が感じられます:「ヘンリー&エマ・ストレイト」)についてこう述べています。

 

[Straight] was repelled by the formality of object lessons, their pretentious vocabulary, and their lack of a central theme. (Dorothy Rogers, Oswego: Fountainhead of Teacher Education: A Century in the Sheldon Tradition. New York: Appleton-Century-Crofts, Inc., 1963, p.53).

 

(この他にも、例えば本書 p.57 に書いてある、オスウィーゴの卒業生 Mary Alling-Aber の例をご覧ください。)

 

オブジェクト・レッスンは現代の学校教育を改革できるような類の教授法ではなく、歴史的な興味の対象でしかないのかもしれませんが、教科書的な説明で満足することなくその内容をよく見てみる必要があります。その作業をきちんとしてくれている、たいへん画期的な本が本書です。