開国以降カナダに渡った日系人は、そのほとんどが太平洋岸地域に住み着き、漁業と林業(製材業)を中心とする肉体労働に就くことが多かった様です。それで、今回は林業・製材業について、アーカイブの写真をお見せしながら書くことにします。
ちなみに、日系人のカナダへの渡航が増え出したのは、ヴァンクーヴァー港が完成してカナダ太平洋鉄道会社(CPR)経営の極東航路が始まった1887年以降のことで、2年後の1889年にはヴァンクーヴァーにカナダで初めての帝国領事館が設置されました(新保満『石をもて追わるるごとく:日系カナダ人社会史』, 御茶ノ水書房, 1996)。現在のヴァンクーヴァー市内とその南隣に位置するスティーヴストン(ヴァンクーヴァー国際空港の近くです)が日系移民・日系人の2大集住地になっていました。
さて、林業は山や森に入って木を切り出すところから始まり、たいていは川伝いに製材工場のある街へ送り、加工して材木にします。
ちなみに、ヴァンクーヴァーのあたりも昔は森だったのですが、早々に木材を切り尽くしてしまいました。
切り出した木を筏に組んで川に流す。
("Largest Spruce Log Davis Raft," BC Archives, I-29419)
この一連の過程のどこにも日系人はいました。例えば山に入って木を切り出す場合、街から遠ければ、何週間とか何ヶ月とかを山小屋に住み込みで働くことになります。これをロギング・キャンプ(logging camp)と言います。男ばかりの大人数なので、誰かの奥さんが一緒について行って、洗濯や炊事をしていました。なにしろ重労働を1日10〜12時間もしていたので、仕事から帰ってきた男たちは「縦のものを横にもしない」ほど疲れ切っていて、女手がどうしても必要だったのです(新保, p.71)。また、例えばヴァンクーヴァーから1,000キロ以上も北にあるスキーナ川(Skeena River)の上流で木材の伐採にあたることなどもあったそうで、大変な仕事だったことと思います。新保満の本には、「写真婚」 –– 行き来が簡単にはできなかった当時、知り合いを通じて写真と口コミで結婚を決める方法 –– で渡加して、夫の日本人労働者源蔵(仮名)がロギングキャンプで働くのに同行し、ロガーたちの生活の面倒を見た経験を持つ「匹田ハヤ」(仮名)の苦労が描かれています。このお話は一読の価値ありです(「カナダの花嫁」, pp.62-86)。彼女は例えばあるロギング・キャンプで、自分と夫、子どもを含めて27人の面倒を1人でみたそうです(p.69)。
ロギング・キャンプの1例。
("Scene at logging camp, near Chemainus," BC Archives, E-02667)
同じくロギング・キャンプの1例。レヴェルストークは、今ではヴァンクーヴァーからロッキー山脈のバンフへと向かう道筋にある街です。
("Revelstoke; Logging Camp, Montana Lake," BC Archives, A-09444)
こちらもロギング・キャンプ。
("Logging camp number 2, near Chemainus," BC Archives, B-06976)
時代はやや下りますが、1937年の写真。日本人ロガーが写っています。
("A Japanese-Canadian logger, Cameron Lake Logging Co. Ltd." BC Archives, B-07875)
この様なところから運ばれた木材を加工する工場が、ヴァンクーヴァーにありました。ヘイスティングス製材工場(Hastings Mill)と呼ばれたところです。
ヘイスティングス製材工場。1889年頃。
("Hastings Mill," BC Archives, A-05951)
ヘイスティングス製材工場の従業員たち。1889年。キャプションには、以下のようにあります。多国籍・多文化な職場だったようです。
"Item is a photograph showing a group of mill workers. Persons in the front row identified are Yasukichi Yoshizawa (second from left), Rusty Pleece (third from left), and Tom Hunter (fifth from left)."
(City of Vancouver Archives, AM54-S4-: Mi P4)
ヴァンクーヴァーの街が始まった場所ギャスタウン(Gastown)は今ではお土産ショップの並ぶ観光地になっていますが、この製材工場の従業員をあてこんで酒場を作ったことで始まったと言って過言ではありません。工場そのものは、入江(バラード・インレット)をもう少し東に行ったところにありました。製材工場を計画したエドワード・スタンプという人物が、元々は別の場所(ニュー・ウェストミンスター:ヴァンクーヴァーの少し西で、この地域の当時の首都機能があったところ)で居酒屋をやっていた「ギャシー(Gassy:おしゃべり)」ジャック・デイトンという人物に話を持ちかけてこの地で居酒屋を開きました。
先に書いた日本人が集まって住んでいたところは、パウエル街(Powell Street)と呼ばれています。それはこのギャスタウンから歩いてすぐのところにありました。チャイナタウンと隣接していて、チャイナタウンの方は今でも残っていますが、ジャパンタウンの方は、日本人・日系人が太平洋戦争中に敵対国の人間ということで海岸から100キロ以上内陸へ移動させられ、財産も没収されたことでなくなってしまいました。移動した人たちは、戦後あまり戻ってこなかったようです。






