「子どもたちが大事だ」=「だから学校が大事だ」
と、当然僕がその姿勢だと思って疑う事もない人たちがいるが
僕にとっては両意識は全くイコールではなく、イコールになる事なんて滅多にない。
学校を大切にされている教師や親御さんや大人たちへの否定でも疑問でもなく、僕にとっての意識がそうだと言うこと。
だから学校に尽くされる人たちは応援しているけど、僕にその意識を持たせようとか、考え方を改めてもらおうとかは、それは話すだけ時間が無駄に過ぎる。
なんだったら僕にはほとんどの場合は
「≠ 」どころか 正反対になる。
子どもたちに何かを教える時には子どもたち個人の、社会に出ての歩きかたをアドバイスするのであって、そこに学校は含まれない。
学校が大好きで学校を楽しむ子どもは学校を思う存分楽しんで学ぶべきだけど
子どもが、そこが居場所じゃないなら
「サボれ」「やめろ」「行くな」
とアドバイスする。
大人と話していて
「学校は全然大事に思ってませんよ」
と答えると
「え?」
と戸惑った顔をされるが、僕はその顔を見て「え?」と戸惑う。
子どもたちに何かを教える時に
「これで頑張って学校に行けよ」
なんて微塵も思ってなくて
「そこ以外にも世界があるんやぞ」
という意味で教えている。
学生時代に、学校という体制に一生かかっても許さない仕打ちを受けたので、僕にとっては学校は
「いらないもの」
だ。
だからといってそれを今の学校にどないかしようなんて全然思っていない。
小さな社会で、いずれ旅立つ大きな社会への予行演習を生きる子どもたちを応援している。
ただ反発覚悟でハッキリ言うが
国家や政治や体制と仲良くできる芸術は芸術ではなく「プロパガンダ」だ。
僕がやっている事は体制と仲良くできないし、仲良くしない。
今という世が、いよいよ絶望しかない巨大な闇の蓋なのか
あるいは
とてつもないパンクが炸裂する前兆なのか
僕にはわからないけど。