自分を撮るということ。 | デペイズマンの蜃気楼

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日々の想った事、出会い、出来事などなどをエッセイのように綴りたいなと。
時折偏見を乱心のように無心に語ります。


一人で撮って一人で出演して作品を作るのは、自分ではない他の人と作る大切さを噛み締めるためだけど、理由は他にもいくつかあって、そのうちの一つが

「自分の事が嫌いで嫌いで仕方ないから」

僕は幼少の頃から自分の容姿が大嫌いだった。
「自分の好きなとこ、強いて一つあげるなら?」
なんて質問はただのイジメでしかない。
好きなとこなんて、どんなに掘り下げても欠片も微塵も出て来ないんだから。
うちの家族は代々みんなそっくりだけど、では一族の容姿が嫌いなのか?というと、そういう意味ではない。
「自分の在り方」が嫌いで嫌いで仕方ないのだ。
表情も仕草も動き方も生き方も、すべては「在り方」が表れる。
だから僕は自分の笑顔が大っ嫌いだし、立ち方も歩き方も、声も何もかも嫌いだ。
脚本家の僕と、演出家の僕と、役者の僕は三つ巴で仲が悪い。互いに酷く嫌い合っている。
演出家や脚本家の立ち位置で言うなら、もし三人の僕がそれぞれ別人ならば、絶対僕を僕の作品に誘わないし、僕が出る芝居なんて観にいかないし、観たら観劇後に飲み屋で悪口を言っている。
役者の僕からも然りだ。
で、自分の容姿がトラウマ並みに嫌いなので、自分が出る作品なんか後で絶対に映像で観なかったし、写真で見るのも嫌だった。
避け続けた。
そんな事を15年くらい続けて脳内で閉じこもって、どうなったかと言うと。

成長しなかった。どんどんダメになっていった。

自分の反省点を見なかったのだから直せないし、他人にどう見られてるかを客観視できてないのだ。
自分の姿を見なければ見ないほど、どんどん自分が嫌いな自分を暴走していく。
そして何かの拍子に自分の仕草を見て吐き気がする。

僕がしょっちゅう白塗りするのは、可能な限り自分の容姿を隠してしまいたいから。
ブロンズ聖衣のような隙間だらけよりも黄金聖衣くらい隠してしまいたいから。

そんなこっちゃ余生を生きれないなと、自分に慣れようと思った。
もうどう足掻いても、40年以上、素の自分を人に見られてきたのだ。
写真が嫌でもそれは自分なのだ。
人が見る僕なのだ。
諦めるしかない。
その姿が嫌ならば直せばいい。正せばいい。
そのためにはまず自分の欠点だらけの容姿や仕草を直視しないといけない。
そんな理由もあって自分で自分を撮っている。

今でも編集をしていて頭を掻きむしってデータを消したくなる。こんな姿を見せてごめんなさい、と土下座をしたくなる。
自分を殴りたくなる。 
ホントは願いが叶うなら、毎日24時間年中無休でアイアンマンぐらいまで自分の姿を隠したい。
それでも何か小さな事からでも改善していかないといけないのだ。

編集をすると連日何度も何度も自分を見続けるはめになる。
人生の自戒になかなかうってつけの十字架だ。


(7分です。前回より少し長いです)