僕の生活リズムと、新学年を迎えたチセの生活リズムがなかなか合わずに「チセチョリ第二弾」の撮影が二ヶ月もズレた。
「子供でMayの団員のチセってどんな子?」というコンセプトで、ナチュラルな彼女が「何が好きで」「何が楽しみで」「何に葛藤があって」とか、とにかく等身大のままで撮ってお届けしたかったのと同時に、撮影を行う事で定期的に彼女に会い、一緒にタコ焼きを食べて、近況を聞いて、一緒に笑って、学校のこれからやMayのこれからを話し合う事で「色んな大人がちゃんと見守ってるよ」という、一人の子供が世の中を生きていく上での屋根の役割になれれば、というのが「チセチョリ」の目的。
子供との1日はなるべく大事に過ごす。
いつ思春期が核爆発を起こして、大人を避けてもおかしくないから。
今日笑顔で話しても、明日急にそっぽ向かれても不思議じゃない。
最近誕生日を迎えてまたひとつ大人に近付いたけど、笑顔で走ってきてくれる姿はあどけない。
タコ焼きを食べながら指折り数えてみたら、演劇で出会って7年目に突入していた。
初めて認識した時には「影のある子だな」と感じた。
その時の「影」を本人は今でも記憶していて、その「影」の意味も教えてくれた。
単なる大人と子供としての関係ではなく、劇団というものづくりの場で彼女と出会えたのは良かったと思う。
一緒に作品を作ると、どこか同じ目線で話すようになるからだ。
「教え子」という立場から「ソンセンニン(先生)」と呼ばれても、やっぱり他の子供たちとは違って対等の目線を持ってしまう。
そのためチセも情報処理で脳をフル回転しないといけない時もあるけど。
子供は語彙が足らないだけで、びっくりするほど深い事を考えている。
そして14になってくると、ちゃんと礼節を持って尋ねれば、世の中への深い想いを話してくれる。
同じ目線だとそれを聞けるし、同じ目線で聞くと、同じ目線でその深い考えを語ってくれる。
挑戦したい可能性が山ほど彼女の頭の中を駆け巡っているけど、挑戦する時間が圧倒的に足りないようだ。
子供は物事が下手なのではなくて、上手くやるための神経がまだ繋がっていないだけ。
その姿を多くの大人は残念ながら「下手」と決断して鍛錬を断念させる。
隔週と言いながら、今後もまた一ヶ月空いたりするかも知れないけど、接するたびにこれからもたくさん無駄な事を教えて、無駄な事を語って、無駄な事に笑いあって、無駄な事を与えてあげたい。
その無駄な事たちは、いつか成長と共にエンジンがかかって融合して、全てが繋がって、遥かな永遠のものを一点集中で生み出すと信じている。