宣伝に歪められた名作 | デペイズマンの蜃気楼

デペイズマンの蜃気楼

日々の想った事、出会い、出来事などなどをエッセイのように綴りたいなと。
時折偏見を乱心のように無心に語ります。

{71554B98-5E82-407A-94E7-38B79C9573F1}

間違えた宣伝、操作された宣伝、歪められた宣伝をされる映画は本当に悲しいし、出会える縁を裂かれていると思う。
自然に出会えれば縁だし、自然に出会えないならばそれも縁だ。
なのに敢えて宣伝を捻じ曲げられて縁を操作するならば、それは許されない謀略だ。
で、その謀略を生むのも実はメディア側からではなく、黒幕は大衆の心理なのだと堂々巡りする。
僕は「スピーシーズ」のような映画も好きは好きだ。
作り手や意図やファンには申し訳ないが、あまり考えずに流して観れるのも大事だ。
「スピーシーズ」の邦題が「スピーシーズ/種の起源」
若いエロティックな姿をした女エイリアンが地球で男をたぶらかして遺伝子を残していくB級SFホラー。
主演女優のヌードを売りにしていたが、SFファンはギーガーのデザイン目的だった。

そして最近観た映画が「アンダー・ザ・スキン/種の捕食」
宣伝に用いられた内容は「若い女エイリアンが男をたぶらかして種を残していく」とかなんとかかんとか。
スカーレット・ヨハンソンがオールヌードで挑んだ、と書いてあった。
スカーレット・ヨハンソンがお金が無いはずなんてないし、お金が有り余りすぎてるのか。なんでこんなB級に、アベンジャーズで充分安定したスカーレット・ヨハンソンがわざわざ脱ぐのか?と疑問だったし、今更使い古されたスピーシーズのノリはいらん、と観なかった。

そんな映画が先日uulaにリスト入りした。
あれこれ締め切りが終わって頭を休めたくて、流し見して寝てしまっても罪悪感を感じない、羊の役割として再生した。
タイトルクレジットが始まった数秒で「あれ??もしかしてこの映画…名作…?」と予感が走ったが「いやいや、んなわけないだろ」と見続けた。
ところが寝入るどころかグイグイグイグイ引き込まれて、一気にラストを迎えた。
B級どころか、グザヴィエ・ドランの「トム・アット・ザ・ファーム」のような孤独な閉鎖感。
タルコフスキーのような静かでさりげないSF。時折ドキュメンタリーのようなさりげなさ。
台詞はほとんど無く、語られるのは雑談ばかりで、初見で字幕なしだと「これ大事なセリフちゃうのか?」と不安になるかも知れないが、全ては表情や動作で語られている。
実験的な撮影方も取り入れられたらしく、静かに始まった映画は無言のままで幕を閉じた。

己という当たり前も、違う場所に住めば異端であり、異端は隠さねばならない。隠しても生きるためにはさりげなく、どこかの当たり前を傷つける。
共存という選択は犠牲なのかも知れない。

「ニーチェの馬」のようにガツンとやられた良い映画のあとは、他の映画を観れなくなって、数日間その映画モードに思考が陥る。
宣伝文句に惑わされる自分も情けないが、それでもやはり宣伝方法を歪められると、入り口の門すらガコン!と閉まるので、無駄とはわかっていても全ての「作品」という生物が正しい道で人と出会える日を願う。

{0B1B9A9F-B1B0-4579-BE34-9E4C59804F78}



お金と名誉を貪るための作品はいつの日か、存在の根本を問う作品たちによって、砕けた地の底に落ちるのかも知れない。
足元の亀裂はゆっくりと走っている。