生まれつき、活字が大の苦手だ。
嫌いなのではない。むしろ小説や絵本など文字の媒体は大好きだし、時間が許すならばどんどん読みたい。
けど苦手なのだ。
どれくらい苦手かと言うと…ちょっと致命的かも知れないけど…自分で書いた脚本を読み返せない。
そして、かなり嫌われるかも知れないけど…客演で他劇団に出演する時とかは、頂いた脚本を脚本上で理解をできない。
物語を理解できないのではない。文字の並びが理解できないのだ。
もちろん義務教育で字を学んだので、読み合わせでも声に出して字を読むが、立ち稽古になってようやく解析できるようになる。
今までええカッコしようと思ってかなり誤魔化してきたが、何だかこの年になると、もう自分の知識と読解力などに正直になればいいや、と思う。
「あ、それ知らない」と認識して今日から得る方が毎日にワクワクできる気がする。
「何だ、君はそんな事も知らなかったのか」と失望されても、それはこれまで生きてきた自分の実力なのだから否定しても何も始まらない。てか、否定してしまえば何も始まらない。
しらばっくれたらちょっとしか知れない事でも「知らないです。教えてください」と言うと、しらばっくれるよりも二歩、三歩と深く教えてもらえる。
呆れられる事はあっても、呆れた人から教える事を放棄された事はないもん。
呆れられる顔を恐れて逃げて誤魔化す平穏よりも、呆れられる顔という箱から出てくる知識の方が価値があるのだ。
で、まぁ、決意を書きたい文章ではなく。
もちろんこれまで小説はいっぱい読んできたし、大好きな小説もエッセイ集も絵本もいっぱいあったし読み返しもしてきた。
創作の核となる糧もいっぱいもらったし、今も小説を読む。
でも「苦手」なのだ。
「読めるなら大丈夫だし、苦手なんか誰だって苦手やん」て言われるかも知れないが、上手く伝えれないけどそういう事ではないんだ。
「私は活字中毒だ」という人を見ると「カッコいいなー、いいなー」と憧れる。
1日で小説を読み終える人とか尊敬してしまう。
カフェで数時間使って小説で時間を費やすのも憧れる。
僕は自然に活字を避ける。雑誌を買っても絵を見ているだけでほとんど字を読んでいない不届き者だったりする。
「恐怖症」ではないけど、避ける。
言い訳と取られてもいいけど「読んでいない」ではなく「読めていない」のだ。
活字の並びが絵になってなかったら、もうそこで入れなくなる。
並びがちゃんと絵になっていて外郭を捉えれた後に、やっと輪郭がわかってきて並びがわかってきて、徐々に書いてある一文字一文字を認識して並びに進む事ができる。
そのページが易く輪郭を捉えれても次のページが「絵」ではなかったらもう情報が入ってこない。
一から睨む事になる。
こう書くと活字慣れしている人はそのプロセスが(僕から見て)超人並みに速いのであり、人間はみんな文字に対してそうであり、僕が人並み以上に遅いから、理解に至る前に挫折するのかなとも思うが。
実際に障害と闘っている人に「失礼な文だ」とお叱りを受けるかも知れないので謝っておく。ごめんなさい。
幼少の頃からあまりの授業の理解できなさが今も尚続いていて「僕は軽度の学習障害なのかな?」と深刻になる事が多々ある。人間が社会で生きていく上で得る知識はほとんどが文字からだ。
新聞が売れない、雑誌が売れない、と言ってもそれは紙媒体の事であって、パソコンに電源を入れても、パソコンに電源を入れる前も、知識はほとんど文字から始まる。
そしてもちろん学校という組織の授業もそうなのだ。
振り返ったら、ただでさえ学校生活で活字が理解できなかったのに、予備校で初めて目の当たりにした日本語のテスト用紙に対するあの時のカオスが、余計に活字を遠ざけたのかも知れない。
とにかく小学校の時から文字の並びの理解に苦しむので、入り口に立つ事もできず、授業が入って来ない。成績が悪くても「アホ」という卑下を喰らうだけで「文字がどうしても理解できない」なんて訴える事ができなかった。
もっかい言うけど小説やエッセイは大好きだし読む。
しかしそのためには導入でちょっと大変な労力のエンジンを入れる。
字を読む行為は、例えば景色を見たいのに視力が極度に弱いので目をキツくキツく細めるようだ。
が、視力にはメガネがあるけど、脳にはメガネがない。
走るのは大好きだけど、心臓が悪くて走れないようなブレーキがあるといった感じか。
どれもこれも軽々しく言うなと怒られそうだけど、本人的には割と真面目なのである。
そしてさらに「はぁ?」と思われる事を告白するならば。
長文メールを読めない。
長文メールになればなるほど返信が遅れる。
メールはどうしても機械的であり絵的にはならない。
だから長文メールをもらうと目と頭が混乱してしまう。
落ち着いて読むまでに少し時間を要するのだ。
昔台本の執筆が周りよりも遅くまで手書きだった。手書きの頃は「字を書いている」というよりも「字という形の絵を書いている」だったので、大きさを微妙に変えたり曲線を変えたりできた。
他人にはわからない筆圧でだけど。
しかし携帯やパソコンで書くようになってからは「字」は「字」でしかない。「絵」ではなくなって余計に見辛く読み辛くなった。
まあ、そんな全部をひっくるめて「みんなそうだよ」なのかも知れないので、そんなつもりはなくても弱音に聞こえたら「申し訳ない」としか言えない。
でもこういう事を書いたからと言って「ちょっと大目に見てくれよぉ」なんて微塵も感じないし「俺も闘ってるだよぉ」なんてハの字眉にならないし、読解力がない事を叱られても馬鹿にされても「まぁ、俺が弱いしなぁ」と思うので、弱点ではあるけど物事に挑まない理由には全くならない。
しかも物も書くし、作品も作っていく。
自分の欠点や弱点を書く時には、何も落ち込んでるわけでもなく、季節の変わり目で鬱に寄っているのではない。
いつも締めくくりたい言葉は子供たちに「こんなアホな俺でも呼吸をして誰かと何かを作って生きてるのだから、お前たち、社会の体裁を常識なのだとのさばる嘘の水圧に潰されずに、正直に、自分を嫌わず、走り回って生きろよ」なのである。