書くという繰り返し | デペイズマンの蜃気楼

デペイズマンの蜃気楼

日々の想った事、出会い、出来事などなどをエッセイのように綴りたいなと。
時折偏見を乱心のように無心に語ります。

もう随分長い事脚本を書いてきた。何年やってもピヨピヨの駆け出しという感覚は全然抜けないけれど、周りに子供達がたくさん増えて成長して大人になって、中には演劇を始めている子なんていると「そっか、この子達が産まれる前から書いてるのか」とついつい考えてしまい、年数は「長いこと」と言えるだけはやってるのだなと感じる。
中高と陸上部だったので、最も長い事続けたのは陸上だけだった。劇団が5周年を迎えて越えるまでは、長い事続けているライフワークでもなんでもなかった。
もう24年くらい書いてるので、一応今までの人生で一番長くやってる事だ。食べてないので人から言わしたら「長い趣味」が正式名称だろうけど。
脚本を書いていてこの24年、全く抜けない感覚がある。
「面白い」と本当に思えるのは発想の瞬間と第一文字が書きしるされるまでで、そこから徐々に不安がトントンと肩を叩く。
半分くらいまで進むと頭の中で変なゲシュタルト崩壊を起こして「これ面白いか?」という冷め切った思考が渦巻く。
それでも始まったプロジェクトだから止めるわけなんていかずに進めていくと、次第に機械的な考えになってきて「こいつが想いを叫んで、だからなに?」「場面を羅列して日常を描いて、だからなに?」となり、ついには「台本を書いて役者に台詞を言わせる意味は?」「それをお客さんに観せる意味は」と問い詰めて、最終的には「やりたい事を突き詰めると、何もしないのが一番いい」とまでに辿り着く。
脚本の脱稿は、携帯で書く身分として大体は(そういえば昨今ほとんど)駅のホームでひっそり迎える。
ラストシーンは初期段階で上げているので、なんだったら真ん中のなんでもない場面の中途半端な場所がゴールになる。
僕はよく脚本を子供に捉えるが、発想が誕生で執筆は生活のようだ。誕生は喜ぶけれど成長と共に悩み、疎ましく感じて、最後には「さいなら」も言うてもらえず家を出ていかれる。
僕は何も言わずに部屋で一人電気を消して寝る。 


そんな事の繰り返し。


よく「演劇に向いてるタイプは?」の問いに「続ける人が向いている」と答えている。
才能があっても続けなければ、その人は色んな心境や状況や環境で向いてなかったのだし、才能が無くても続けるならば、気持ちもリズムも環境も向いているのだ。
「演劇の才能」といってもひとつのカテゴリーにくくれないし、続けていく中で発見する才能もあったりする。
だから「続けている人が向いている」と思う。


では僕は向いてるかどうかと言うと自分では疑問だ。
毎回、語彙の足りなさと、ボキャブラリーの無さと、知識の無さと、個性の無さに憂鬱になる。
なんで他の人らはあんなに言葉を知っていて、あんなに知識があって、あんなに個性があるのかなぁと羨ましくなる。
誤魔化し誤魔化しでここまで来て毎回アホがバレないかとヒヤヒヤしている綱渡りだ。
(ある側面ではバレてるけど)

たまに「頭の中を覗いてみたい」と言われるけど、自信を持って断言できる。
カラッポだ。


毎回毎回ゲシュタルト崩壊の闇の渦をグルグルグルグル打ちつけられながら、次の執筆に入る時に思う。
向いてるかどうかじゃない。

うん。

僕は「懲りてない」のだ。

脱稿した子供はまた今日も出ていく。


そして出ていった子供は役者の声と演技に命をもらって、光をもらって、音をもらった時 「お元気ですか?私は元気ですよ」と手紙がくる。


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