第87回 「サルバトール・ムンディ」 画家たちの願い① | レオナルド・ダ・ヴィンチの小部屋~最後の晩餐にご招待

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レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画の謎解き・解釈ブログです。
2021年5月末から再度見直して連載更新中です。

連載のはじめから読まれている方には、重複する部分が多くなるので申し訳けありませんが、

ボッティチェリとレオナルドが、1500年当時、何故「ヨハネ黙示録」に関するものを描いたのか? その流れを整理したいと思います。

 

 

  1500年当時を黙示録11章、12章の時代と信じた背景

 

下矢印      

下矢印「神秘の降誕」にボッティチェリがギリシア語で記した銘文の訳

『私サンドロが、この絵を、1500年の末、イタリアの混乱の時代、一つの時代と半分の時代の後、聖ヨハネの第11章が成就した際、すなわち悪魔が3年半の間に解き放たれるという黙示録の第二の災いの時に描いた。やがて悪魔は、第12章に記されているとおりに、鎖につながれ、この絵に見られるごとくに我々は見るであろう。』  ※西村書店『ボッティチェリ』より引用 

 

ボッティチェリが記した「イタリアの混乱の時代」とは、1494年からのフランス軍の侵攻を示していて、そのイタリア混乱の時代を「ヨハネ黙示録11章の時」と信じたのは、ジロラモ・サヴォナローラの影響が強かったのでしょう。

 

ジローラモ・サヴォナローラ(1452年生-1498年没)

 

 

ただ、サヴォナローラが台頭する20年以上も前から、

ボッティチェリは、「自分の生きる時代に救い主が再臨すること」を願っていたとみえる作品があります。

 

さらに遡ると、ボッティチェリの師匠のフィリッポ・リッピの遺作も、彼らに影響を与えたと思うのです。

 

 

  フィリッポ・リッピの願い

 

 

 

 

ボッティチェリの師匠であったフィリッポ・リッピの遺作となったのが、スポレート大聖堂の壁画「聖母マリアの生涯」(制作年数1466~1469年)でした。

 

フィリッポリッピ 「聖母マリアの生涯」

 

壁の向かって左が「受胎告知」、右が「キリストの誕生」、中央は「聖母の死」。

「聖母の死」の地上から道が天につづき、天井が「聖母戴冠」になっています。

 

「聖母の死」の黒い帽子の人はフィリッポ・リッピの自画像で、

「受胎告知」の聖母マリアは、彼の妻のルクレツィアがモデルになっていました。

 

この聖母マリアの右手や体は、神や天使とは反対の右側に向けています。

彼女の体の向きと右手は、フィリッポ・リッピの想いを受けとめようとしていると感じるのです。

さらに彼女の視線の先には、砂時計があります。

 

「砂時計」で自分が思い浮かぶイメージは、

「限りある時間」と「繰り返す時間」です。

 

リッピはルクレツィアより30歳上ですから、たとえ病気が無かったとしても、先に逝くのはリッピです。でもルクレツィアも歳を重ねれば、やがて中央の聖母マリアのように亡くなる時がきます。

限りある寿命、人の肉体はいずれ朽ちるけど、妻と自分の姿は同じ場所に、永遠に残したかったのだと思います。

 

”貴方の死の際に側にいることができないが、絵の中では永遠に側にいられる。

もし砂時計をひっくり返すように、再び時をきざめるものなら、また貴方と結ばれたい。”

 

スポレート大聖堂のフィリッポ・リッピとルクレツィアと砂時計を見ていると、そんなイメージが浮かんでくるのです。

 

 

師匠の遺作をみて、ボッティチェリは何を想っただろうか?

 

 

 

 

第88回に続く