フィリッポ・リッピの遺作、スポレート大聖堂の「聖母マリアの生涯」の、
中央の「聖母の死」に描かれているフィリッポ・リッピの肖像。
彼の視線と手が気になっていました。
何を見ている? 何を示している?
左手の人差し指は、自身の右手か、聖母マリアの足元を差しているようにみえます。
では視線は、左側の群衆の誰かに向けたものなのでしょうか?
わたしが思うに、フィリッポ・リッピが見ているのは、
左側の「受胎告知」ではないでしょうか?
ルクレツィア・ブティとの出会い
プラート大聖堂の制作期間が1452年~1465年。
その間の1456年にリッピはプラートのサンタ・マルゲリータ修道院の礼拝堂付き司祭に任命されます。リッピは30も歳の若いサンタ・マルゲリータの修道女ルクレツィア・ブティに恋をし、祭礼の混雑にまぎれて彼女を誘拐し、自宅に連れ去るというスキャンダルを起こします。
1457年に2人の間に息子フィリッピーノ・リッピが誕生。
1465年には、娘アレッサンドラが誕生。
司祭であるリッピの行為は、告発されて修道院に出入り禁止となりますが、メディチ家の当主コジモ・デ・メディチのとりなしにより、彼らは教皇から正式に還俗を許され、正式の夫婦となったという説があります。(正式な夫婦になれたかどうか、はっきりしませんが二人の子が生まれているのは確かです。)
1460-65 聖母子と二人の天使
こちらの作品は、ルクレツィア・ブティと二人の子どもがモデルとのこと。
1456年以降のリッピの描くマリアやサロメのモデルはルクレツィアとされています。
ルクレツィアがモデルとされる、プラート大聖堂のサロメ
ここにも、フィリッポ・リッピは自画像を描きいれております。
黒い服の二人、フィリッポ・リッピ(1465年完成時で59歳)と弟子のフラ・ディアマンテ(35歳)らしいのですが、どっちがリッピなのかよく判りません。左の正面を向いているのがリッピだとしているサイトもあったのですが、右の方も視線もこちらにあるので気になります。
・・・どちらかがリッピなのは確かでしょう。
フィリッポ・リッピの肖像がある壁画の向かいにあるのが、さきほどのルクレツィアがモデルとされるサロメの壁画です。
偶然なのか故意なのか?
フィリッポ・リッピの視線の先には、愛するルクレツィアがいたのです。
プラート大聖堂の制作を終え、1466~67年にスポレート大聖堂の壁画制作のため、妻子と共にスポレートに移転します。
しかしフィリッポ・リッピは1468年に病に倒れ、1469年10月に亡くなります。
何の病気かは知れませんが、体調が優れなくなり、思うように壁画制作に望めず、「死」を意識したことでしょう。自分の死期を感じた時、何を想ったことでしょうか。
フィリッポ・リッピの視線の先の「受胎告知」でも気になる点があります。
それは若きルクレツィアがモデルの聖母マリアの視線と手です。
フィリッポ・リッピがこれまで描いた「受胎告知」を振り返ってみましょう。
上の4作品の「受胎告知」の聖母マリアは、胸に手を当てるか、身をよじっていても手の平は告知を受け止めるように相手に向けています。
しかし、こちらの聖母マリアは左手は胸に当てているものの、かなり身をよじり右手は「告知」している天使や神とは反対の右側に向けているのです。
右手の方向には、「受胎告知」に視線を向けるフィリッポ・リッピがいます。彼女の体の向きと右手はフィリッポ・リッピの想いを受けとめようとしているポーズではないでしょうか?
また、視線の方向(位置としては背後になるのですが)にあるものは砂時計だそうです。「受胎告知」のテーマに砂時計が描かれることは非常に珍しいようで、砂時計に対する深い考察もネット検索で見れますので、関心ある方はどうぞ。
ただ自分はこの砂時計の場合は「節制」ではないと思います。
やはりこの砂時計も、フィリッポ・リッピの想いがこもったものと感じます。
フィリッポ・リッピは、ルクレツィアの外見状だけをモデルにしたのではなく、
「聖母マリア」に「妻ルクレツィア」も兼ねさせているとみえます。
フィリッポ・リッピの視線は「受胎告知」に向けたものであり、左手の人差し指は彼の右手か死去した聖母マリアを差したものだと思います。もしこの左手の小指と人差し指の二本がルクレツィアとリッピを意味したとしたら・・・。
リッピのが彼女より30も年長ですから、たとえ病が無かったとしても、先に逝くのはリッピです。でもルクレツィアも歳を重ねれば、やがて中央の聖母マリアのように亡くなる時がきます。
”貴方の死の際に側にいることができないが、絵の中では永遠に側にいられる。
もし砂時計をひっくり返すように、再び時をきざめるものなら、また貴方と結ばれたい。”
フィリッポ・リッピとルクレツィア(聖母マリア)と砂時計を見ていると、そんなイメージ(想い)が浮かんでくるのです。