「これは律法の下にある者を贖いだすためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。」
(聖書箇所 ガラテヤ人への手紙4章5節)
時々「道徳なんてクソ食らえ」的な人がいて笑えないけど、思わず笑ってしまいます。
というのは私もそれぐらい頭でっかちだったからです。
そういう人達は自分がそうであったにもかかわらず自分で言うのもなんなのですが、決して悪い人たちではないのです。
単に頭でっかちなだけなのです。
第一本物の大悪党は「道徳なんてクソ食らえ」なんて思いもしません。
自分は正義の味方だと思いながら思いっきり悪を行ないます。
ま、それはさておき私たち人間ごときに道徳をぶち壊すことなどできません。
それができればある意味楽ですが、道徳は地球が破滅しても私たちの心に残るでありましょう。
さて、キリスト教とは結局つきつめるとこの道徳に私たちがどう向き合うかということに収斂されるのです。
道徳を行ないたいけど、行なえない。
その自分と向き合うところからキリストの十字架が見えてくるのです。