違和感が救いや恐怖に変わるとき | ソニエリのブログ~マインドコントロールの功罪~

ソニエリのブログ~マインドコントロールの功罪~

真如苑の欺瞞について、経験に基づき掲載しています。

何かはっきり伝えられない、何か有り難い教えは、やってみなければ分かりません。
やってみるとまず感謝が言われて、そこに行った人達は感謝しています。
「これが感謝の意味なのか。」と腑に落ちた時には、過去の出来事が教えどおりだったと意味付けられています。
やがてその無意味さに気づくと、「救いがもたらされない。」と脅迫の言葉となります。
それを恐れて続けなければならないならば、洗脳が進んでいる証であり、更に違和感を感じてその裏の目的に注目してしまうと、洗脳が解けてしまうこともあります。
信者に誘われて、何か最初から決められていたかのような、お見通しのような違和感を感じた時に、その教えの盲点としようとしている目的が分かってしまった時、洗脳への道を立ち止まって考えることができます。
信者にとって、教えがまだ分からない人や、教えを辞めてしまった人が、ネットや教えの実体験で得た情報を基に対策してしまうことは有り得ないことでしょう。教えにとって不利な情報は嘘とみなされるでしょう。
それは、ただ信者が洗脳によって教えの目的を盲点とされているだけであって、恐れを知らないような信者の態度は違和感となって見えることもあります。
信者は教えに守られているという根拠に、上から目線で教えに救われない恐怖を持たせようと勧誘してくるのです。