私はラーメンが大好きです。嘘ではなく本当に毎日毎食でも食べていたいです。どうしてそんなに好きになってしまったか?というと、もう物心ついた時には好きになっていて、定かな記憶はありません。アマゾン川の最初の一滴なんて誰にも分からないように。5つくらいの時にオヤツとして祖母が作る一袋の明星チャルメラを弟と私で分け合い、先に食べ終わってしまいますと相手のがうらやましくなりますので相互に牽制し合いながら、ゆっくり、ゆっくりと食べていたのが懐かしく思い出されます。
父、母、弟、私と、一家揃ってラーメンが大好きでした。小学校の授業が午前だけの土曜日の昼は決まってサッポロ一番の味噌(伸びやすい)、もしくは塩(袋入りのゴマが素敵)でした。この頃の習慣、味が体に染み込んでしまったみたいで、今でも土曜日の昼はサッポロ一番が多いです。おもちゃがついている割に格安なセットメニューで以って小さい頃の楽しく美味しい外食体験を体にすり込ませ、一生のお客さんにしてしまうマクドナルドの狡猾なマーケティングみたいに。
小学校6年だったと思いますが、クリスマスの夜は何がいい?との母の問いに対し私は焼き鳥と当時好きだったカップラーメンをリクエストして、クリスマスの聖なる夜にケーキを食べることなくカップラーメンをすすっていた妙な家族の食卓が思い出されます。そんなでありますが間違いなく私にとっては最高に幸せな一時でした。細心の注意を払いながら食べる上司との諭吉一枚くらいはしているだろう食事よりマジで旨いです。このように決して裕福ではなかったけれども、掛け替えのない、ほんわかした体験より、お金だけに執着しすぎるのはつまらない、との思いを私は持っています。
中学、高校の時は近くの「くるまやラーメン」に家族や友人とよく行きました。デラックスという全部入りのを頼むのが当時の私としては最高の贅沢でした。しかし現在の住居周辺にも「くるまやラーメン」はありますが、当時のようなワクワク感は残念ながら感じることはありません。何故ならば色々と他の店も経験してしまったためです。夢中に、それこそ狂う程に執着していたアイドルから硬派のロックに感心が移ってしまった後のアイドルに対する熱気の冷めた妙な落ち着きみたいに。ただ今でも「くるまやラーメン」を食べた時は、その味が本のしおりみたいになって、どこかに置き忘れていた中高の頃の懐かしい思い出が頭の片隅から引っ張り出され、幾分切ない気持ちにさせられます。
一時、サラリーマンにウンザリしてしまいラーメン二郎を始めようと本気になっていたことがあります。私にとって以上に述べたようにラーメンは幸福の一丁目一番地ですので。そのような中、二郎の店内で出来上がりを待つ間は決まって店舗運営のノウハウを盗むチャンスとばかりに店主とアシスタントである店主の奥さんの相互作業を目を皿のようにし注視していたものでした。きっと側から見たら変な客に映っていたことでしょう。このような本気度が結婚して家を購入しローンを組んたばかりの妻には相当に不安(不満)だったようで円形のハゲが出来てしまった時には本当に焦りました。今でもやってみたい選択の一つでもあります。ただ僕と一緒にモヤシを茹でてくれないか?なんてもう妻に言う気は毛頭もありません。
二郎
人生はやり直しが効かない一発勝負です。ですので、自分が何をしたいのか自分にとっての真の選択を大切にしていたいものです。どういうことかというと損得といった理屈は程々に、より感覚、本能みたいなことへ素直になるということです。理屈では理解しているけれど、何かしっくりこない、そういうことってありますよね?自分は本当に今こんなことしていていいのか?自分!なことに対して程々のお金、つまり安定が欲しいがために随分と長い時を空費し、後悔してしまった経験が私にはあります。うっせぇ、うっせぇ、うっせぇわ、と思いすぎるならば、本来の自分の居場所に移った方がいいと私は考えています。むしろその方が後になってより多くのお金もついてくるのかもしれません。
If today were the last day of my life, would I want to do what I am about to do today?
今日やろうとすることを今日が人生最後だったとして、それでもやるかな?
スティーブ・ジョブス
うっせぇわ