防衛[No.73] | 起業して不安はあるもののワクワクしている50歳・IT技術者・中小企業診断士のブログ
沖縄で争いについて改めて考えてみた。どうしたらそれを防ぐことができるのか?って。考えた結果、よく言われることだけれど抑止力が有効なのかなって思った(ジョンレノンのimagineみたいなものへの憧れを捨てたわけではないけれど)。前回も少し書いたけど、皆が皆、善意の国(人)ばかりではないから。

卑劣でむごいことって国家間も個人間もいつの時代もなくなることはない。ユダヤ人への迫害とか、相撲部屋での兄弟子力士たちの死を恐れない後輩力士への汚い集団リンチ、死んでしまったら、他人ごとのように振る舞い、忘れ去られるのを待つ、そうなれば誰の責任でもない、悲惨な死よりも自らの汚れた地位の保全、そういう感覚なんだろうか?

失われた家族とかは死ぬまで1日たりとも怒り、悲しみを忘れることはできないのに。電源を入れるたびに読みこまれるパソコンのROMに焼き付けられた起動情報のように。根底には社会不安とか、遅れている昇進とか、そういった負のエネルギーが弱者への虐待となってしまうのかなって思った。なさそうで、あるところには確実にある話だ。

弱い人たちの多大な犠牲が汚い人たちのわずかな満足をささえる。

さらに汚い人ほど自分ってこんなに可哀想なんだってふりして同情を集めようとする。サッカーで転んだふりしてPKを求める、こずるいストライカーのシミュレーションみたいに。

そんなだから国家であれ個人であれ防衛を真剣に考えないといけない。

じゃどうするか?僕は左脳、右脳つまり理屈と感情の両面から抑止力をもつべきだと思う。

理屈の抑止力とは弱者の拠り所である法である。どんな強者でも法を犯すことは全てを敵にまわすことに近い。ただ法は分かっていないと、理不尽に対して「おかしいだろ」って自信を持って牽制球を投げられない。しかし学校は生きた法を教えてくれない。だから自分で学ぶか専門家に頼ることになる。僕は資格試験をきっかけに法を学んだ。はじめは小難しく感じたが、やってるうちに楽しくなったりする。誰を救うのか?っていう観点でみると合理的で、なるほどってことが多い。きっと過去から長い時間をかけて多くの悲しみとか憎しみといったものが幾重にも積み重なった結果、徐々に完成されてきたんだと思う。

感情の抑止力とはナメたことすると「倍返し」だったり「窮鼠猫を噛む(※)」みたいなことになるぞって相手にある種の怖さを感じさせることだ。上ばかり見ていて下を軽視する国(人)には特に有効な気がする。

大切なのは以上のようなことにより、1ミリも差し込まれない強い意志を相手に分からせる毅然とした姿勢だ。

国も人も正しさを欠いた弱肉強食といった側面は残念ではあるが存在する。そういったことはキレイ事だけでは拭えない。だからある種の緊張感によるバランスによって平和(国・家族の笑顔、その源となる命)を守っていくことが有効だ。これ以上の死者を出さないために。そんな風に考えた。

インコース胸元をストレートでえぐられ、のけぞった後、ピッチャーを軽く睨みつけ次の球に臆することなく踏み込んでいけるバッターでありたい。たとえぶつけられても。

※ 追い込まれたネズミは猫をも噛むこと。弱いものも追い込まれると強いものに反撃すること。