沖縄で第二次世界大戦について考えてみた[No.72] | 起業して不安はあるもののワクワクしている50歳・IT技術者・中小企業診断士のブログ
今日は家族旅行で沖縄にいる。沖縄というと悲惨な第二次世界大戦のイメージが強い。

第二次世界大戦への思いは人それぞれだと思うが僕は自虐的歴史観に基づいた、すいません、すいません、みたいな過度な反省ではなく、かといって靖国にお参りに行って英霊に涙するわけでもない。(こういう話する時って右とか左みたいに分類されること多いけどその両極にいない中くらいの人が大半だと思う)

中韓といった国々にとってはホントに酷い侵略で、もし僕が彼らだったら日本に対して憎しみを持っていたはずだ。日本人として申し訳なく思う。ただ、内政がやばくなる度に日本の戦争責任を蒸し返し不満を転嫁するのも・・・って気がする。

あの時代は、世界中が少しでも自国に利益を引き寄せるためにくっついたり、裏切ったりしていた、そんなパワーゲームに敗れてしまっただけだ。正義の味方も悪者もいない。あったのは他者の犠牲を顧みない「もっともっと」みたいな欲望、それと勝てば正義、負ければ悪みたいな価値観。そのような帝国主義の反省を敗戦国である日独伊だけに押し付けることには違和感がある。

今、勃発しているシリアの内戦では、シリア政府と反体制派の争いに乗じて利害関係国の国益に対する思惑が交錯している。歴史から学ばれていない醜い代理戦争。

残念なことではあるけれどメンツ、欲望、憎しみといったものはいくら経験を通じても、うまく抑えが効かないもんだ。10代の若い頃はノーボーダという言葉に希望を感じていたこともあったけど、人種・文化・宗教とかが共有できている人達とグループ(国)を形成して自分たちの価値観を守っていくことは必要だ。ただ、ひめゆりの塔の施設を見学してみて、戦争の悲惨さを強烈に実感したので、守るべきものが侵された場合、どうしたら良いのか?今の自分は答えをもちあわせていない。ただ、ナメられない(抑止の)ためにもある程度、国の借金、税金が増えても、軍事費は下げられないなと思う。ナメられたらやられるから。LOVE&PEACEの通じないターゲットの隙とか弱さに異常に執着するあざとい人もいたりするので。国際関係も、人間関係も。

最近、経済力も軍事力も各国の差がなくなって平たくなってきている。濃度の濃い液体と薄い液体が混ざり合って中くらいの濃度になるみたいに。そういった新たな自由(緊張感の欠如)が新たな争いを生む。そんなことで冷戦時の突出したパワーを持っていた米ソの睨み合いの均衡のもとに成り立っていた平穏って皮肉なものだ。集団の中で強烈なパワーを持った人がいなくなると、新たな主導権のための醜い争いが始まることってある。

いつの時代も、「この混沌とした時代」って言われるけど、そういった状況の中で僕はスイスのような中立国に憧れる。中立国というとソフトなイメージがあるけど他国からナメられない自他への厳しさが尋常ではないって聞いたことがある。そういった安易に流されないための厳しさを厭わない一匹狼みたいなスタンスって格好いい。

干し草のベットの上でモミの木の声を聞きながらぐっすり眠るハイジのような安らかさと、自分のルールを守るための厳しさを併せ持った平和って素敵だ。