ソウルの汝矣島、東京の永田町。両国の国会図書館はいずれも政治・行政の中枢に位置している。一方、釜山の支館は明知の外れ、車がなければ行きづらい場所にある。関西館はまだ訪れたことがなく分からない。

卒業生という立場で論文資料を探していると、この距離感が身に染みる。ソウルに行く用事があれば必ず立ち寄っていたが、最近は日本の資料まで気になり始めた。

 

先日ある文章を読み返して思ったこと。一次資料や原文を直接確認しないまま消費されている歴史的論点がどれほど多いか。結局、誰かの要約を何段階も経て伝わった話で世論が形成される。原文を直接照らし合わせられるかどうかが、議論の深さを分ける。図書館ひとつのために旅程を一日延長したのは初めてだった。勉強が好きだからというより、自分の中の危機感からだった。

今日は日本の国会図書館と関連する研究DBに慣れる時間だった。翻訳機を使っても一段階ずつ質問しなければならず、韓国にRISS・KISS・DBpiaのような学術論文閲覧媒体があるように、日本にもそれらを統合する窓口がいくつかあることを、検索を重ねながら知っていった。

MicroEdgeの翻訳機能に安心感を覚えながらも、不思議だった。翻訳はうまくついてきているのに、なぜ資料はすぐに出てこないのだろう。言語の問題ではなく、資料閲覧に至るまでの段階そのものが韓国と違うことが問題だった。韓国のように「資料閲覧」ボタン一つでPDFビューアがすぐ開き、ダウンロードまでできるシステムではない。最初は戸惑ったが、考えるほどに、研究者の労苦と著作権倫理を共に考慮する日本ならではの細やかさと「待つことの美学」を感じた。図書館証一枚発行してもらうのに、まるで運転免許証を取得するような気分だったが、外国人居住ビザがない身分でも発行してくれたことに感謝しながら、心を穏やかに保つことにする。

 

朝の気分に流されて国会図書館に遅く着いてしまったことを、痛烈に後悔した。

資料に近づくということは、利便性の問題ではない。歪みを減らし、自ら判断する根拠を持つという意味だ。もちろん日本は韓国と違う。論文のダウンロードや保存権限は限定的で、閲覧に至るまでのクリック段階も多い。著作権保護のための手続きだと理解はできる。ダウンロードまではできなくても、原文を自分の目で直接照らし合わせられること、今はそれで満足することにする。

明日は日曜日、図書館は休館だ。代わりに出国前の月曜の午前にもう一度立ち寄って、残りを探すことにした。迷わずすぐに資料を見つけられるよう、今夜はキーワード別のプロンプトや資料の場所、検索の流れを整理しておかなければ。日本のシステムに慣れつつも、韓国人特有のせっかちな性分だけは捨てきれない、ちょっとした知恵だ。

 

空いた日曜日は池袋か表参道にでも行こうかと思っていた。鑑賞・買い物・文化が並ぶビル巡りの旅先だし、目黒の話題のカフェもYouTubeやInstagramで知ってリストまで作っておいたから。でも、猛暑でもないのに行きたくない。気が向かない。誰かと一緒か、夫がいれば別だが、一人だと一箇所に長く留まる癖が直らない。

 

月曜の朝は国会図書館に最後にもう一度立ち寄って残りの資料を整理し、夕方は羽田へ向かう。