今年の秋夕(チュソク)のあいさつに使う写真を一枚作った。
秋夕は日本の十五夜と同じ旧暦八月十五日で、家族が集まるお盆のような韓国の名節だ。

韓屋の縁側にピンクの韓服姿の私が座り、淡いピンクの韓服を着た娘が隣に寄りかかっている。
背後には柿の実った枝と瓦屋根が見え、空には満月が浮かぶ。
どこから見ても秋夕らしい写真だ。
けれどこの韓屋は地図のどこにもない。
月も、ある晩に実際に昇った月ではない。
私たちはあの縁側に座ったことがない。
写真とは、いつも目の前にあるものを写し取ることだった。
フィルムカメラがデジタルカメラに変わったときも、
友達と狭いブースにぎゅうぎゅう詰めになってプリクラを撮っていた頃も同じだった。
そこに立っていなければ写真には写らない。
レンズの前に立たなかった人は、どんなに会いた
くても写真の中に入れられなかった。
AI写真はその逆を行く。
今この時間に望む背景を並べられないとき、
着たい服や立ちたい場所をすぐに用意できないとき、
その空白を埋めてくれる。
映画のCGのように、空間も現実も軽々と越えていく。
もう一枚には、博士のガウンを着た私がいて、
隣で夫が作業着姿で笑って立っている。
学位授与式の日、私は家族と写真を撮ったが、夫はその場にいなかった。
船に乗っていたからだ。
私の勉強に誰よりも多くの時間と心を注ぎ、
学費まで出して今の私をあらしめてくれた人なのに、
肝心のその日の写真には写っていない。
その空いた場所を埋めたかった。

夫にスーツではなく作業着を着せたのには、私の好みも一役買っている。
私はカジュアルよりも、スーツや作業着を着た人にいつも目が行った。
きちんと立ったシャツの襟の上の顎のライン、
肩の線がすっきりと落ちる後ろ姿のようなもの。
自分の仕事に長け、どこかに属して自分の役目を果たす人の服には、
その仕事の重みがにじんでいる。
私はそこに惹かれ、ときには畏敬の念さえ覚える。
ガウンには私が机に向かって過ごした時間が、
作業着には彼が海の上で過ごした時間が込められている。
二つの服が並んで立つ場面は現実ではついに撮れなかったが、
AIは私の意図をすぐに汲み取り、その場面を作り上げた。
ところで、この写真は誰が撮ったのだろう。
絵なら私が描いたのだし、自撮りなら私が私を撮ったのだが、
これはどちらでもない。
AIという他者が私をもとに、もう一人の私を作ったのだ。
じっと見ると、写真の顔は私に似ているけれど、
私より少しなめらかで少し若い。
私を参考にして作られた、私に似た誰かだ。
何枚か出してみるうちに、どこかで何度も見たような気がしてきた。
この背景にあの服、それらしい風景がインスタントに次々と出てくるのだが、
まるでウエディングスタジオの写真のようだった。
同じセットで顔だけ差し替えたウエディング写真。
結婚の準備で博覧会を回り、業者に出入りしたせいで、
私はセットを見るだけで分かる。
あれは2015年ごろの流行だ、あれは2020年代のスタイルだ、
どこのスタジオの雰囲気だ、と。
そうやって量産される写真にはすぐ飽きてしまう。
AI写真にも似たにおいがした。
それでも楽しかった。
スタジオや韓服レンタル店に毎回行ける身ではないのに、
秋夕の雰囲気をまとわせてくれ、
一緒に過ごしたかった瞬間を時間をさかのぼって作ってくれるのだから、
小さな魔法のようだった。
ただ、原本だけが放っていた気配のようなものはなかった。
ボタンをもう一度押せば、別の秋夕、別の韓屋が出てくる。
どの一枚も原本と言えるし、だからこそどの一枚も原本とは言いにくい。
私のプロンプトの腕が足りないせいもあるだろうが、
スタジオ写真の鮮明さやプロの手わざ、
絵の筆の跡や色合いは見当たらなかった。
うまく説明できなくても、写真かAIかは一目で分かる。
だからといって、速くて手軽だから、手で作ったものではないからと、
この写真の点数を引くべきだろうか。
写真が初めて登場したときも、デジタル写真が出てきたときも、
人々はそれは芸術ではない、それは写真ではないと物差しを当てた。
振り返れば、測り間違えていたのは物差しのほうだった。
私は二枚を並べて見るほうを選びたい。
学位授与式の日に実際に撮った写真には、
その日の光と家族の顔があるが、彼はいない。
AIが作った写真には彼がいるが、その日がない。
どちらか一枚がもう一枚の代わりにはなれない。
二枚そろって初めて、あの頃の私が欠けずにそこにいる。
居心地の悪い点もある。
フィルム写真には、その日その場所に届いた光の痕跡が残る。
少なくとも、それがそこにあったという証拠にはなる。
AI写真は何も証明しない。
娘が大きくなってこの写真を見たら、
韓屋の縁側で過ごした秋夕を覚えていると思い込むかもしれない。
なかった思い出が、あった思い出の場所にそっと居座るわけだ。
しかもこの写真を作るために、
私は自分の顔と子どもの顔をどこかのサーバーに上げた。
同じ技術で、誰かが私の顔を私の望まない場面に入れることもできる。
家族写真一枚を前にしても、本物かと問わなければならない時代がもう来ている。
だから私は、これらの写真を記録とは呼ばないことにする。
If I…と呼びたい。
もしもあの日、私が韓屋の縁側に座っていたら。
もしも彼がその場に一緒に立っていたら。
これらの写真は、言い終えられなかった胸の内を描いた絵に近い。
アルバムも二冊に分けるつもりだ。
一冊にはあったことを、
もう一冊にはIf I…で始まる場面を収める。
二冊を取り違えさえしなければ、
この楽しみは心おきなく味わってもいいのではないだろうか。
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