あてもなく歩いていると、ふと足が止まる瞬間がある。思い出の通り、思い出の店、思い出の味の前で。引き止めるのは場所ではなく、そこに重なっている人の記憶だ。地縛霊とは本来、一つの場所に縛られて離れられない霊のことをいうが、ここでは少し違う意味で使っている。足を動かせなくし、行くはずだった場所へ行かせず、大した理由もなくその前に長く立たせてしまう記憶のことだ。彷徨っているのは霊ではなく人で、縛っているのは場所ではなく記憶である。


 

長く付き合える間柄の方が好きだった。いつかどこかで出くわしたときに、自然に挨拶できない関係になるのが嫌で、恋愛より友情の方が楽だった。


いつからか、一人で長く居られる場所を探すようになった。旅行やデートをためらう日が増えたからだ。これはあの人が好きだったもの、あそこは一緒に行った場所。そんな考えがついて回るのが嫌で、誰も連れて行かない席を二つ決めておいた。一つは図書館、もう一つは厨房の前にカウンター席のある店だ。一度一緒に行ってしまえば、その席も誰かの記憶になってしまうから。一人で隠れられる場所が一つずつ消えていくのが嫌だった。

日本に来ると、ここにもう一つ加わる。歌舞伎座だ。こちらは守ろうと努める必要すらなかった。周りに歌舞伎や演劇に関心のある人がいなくて、そもそも一緒に行こうという話が出たことがない。隠れるために選んだ席でも、誰もついて来なくて一人になった席でも、座っている姿は同じだ。

今回の東京で、わざわざ足を運んだのも国会図書館だった。宿から出るには日比谷から有楽町駅まで歩いて乗り換えなければならなかったが、よりによってその短い道が、昔、誰かと並んで歩いた道だった。一日に二度、行き帰りのたびに通った。避けるために作っておいた習慣が意味をなさないほど、東京は毎日その道を歩かせた。

図書館を出て向かいを見ると、国会議事堂が立っていた。食堂もカフェもなく、人の姿も物音もほとんどなくて、まるで軍の施設のように整然としていた。翌日に歩いた二重橋と丸の内も似ていた。整いすぎた街には、一人でいる人間をより一人にするところがある。歩いている間ずっと、地縛霊が長く後をついて来た。幸い、昔の恋人の記憶ではなかった。夫であり、娘だった。数日後には会う人たちなのに、同じ場所で何度も足が止まった。お互いに忙しい。

けれど、どこか物足りなかった。一人で写真を撮り続けている自分が少し気恥ずかしく、幼くておしゃべりだった頃の娘の姿がしきりに目の前にちらついた。旅行ならいつも夫の後をついて歩いていた。今はグーグルマップを見ながらついて歩く。視線が画面と足元にばかり留まるので、その上にそびえる高層ビルも、高く掲げられた看板もロゴも標識も目に入らない。大きな看板が一つも見えないと、ここがどこなのか地名すら浮かばなくなるという副作用ができた。だから、あてもなく歩くことにした。街を覚えるには、画面ではなく自分の目で周りを収めるしかなかった。

夕方の銀座では、おじさんたちが連れ立って飲み会へ入っていき、喫茶店の窓際では年配のご婦人たちが長々と話し込んでいる。せめて飲み会でもしたかった。その和やかさまで羨ましくなるほどだ。目的があって、やることがあって来た足取りなのに、それでもそうだ。地縛霊を断ち切る実体がない。

 

明日は図書館が休館だ。日程を一日延ばしたおかげで、宿を移る日でもある。どうせなら、少し遠くまで出てみよう。