丸の内口。東京駅のコインロッカーにキャリーケースを預け、Googleマップを閉じた。


矢印とナビの音声を消してはじめて、目に入ってくるものがあった。大きな看板、街の名前、通りの名を示す標識、摩天楼のシルエット、そのすべてを包み込む風景。


スマホを下ろせば一目で収まる景色も、レンズで捉えようとした瞬間、倍率を下げなければ、それも歪んだままでしか入りきらない。


遠くから全部を収めようとすると、不要な、望まない景色までもが一緒に写り込んでしまう。

 

1945年、パリで刊行された『知覚の現象学(Phénoménologie de la perception、英訳題 Phenomenology of Perception)』の中で、


モーリス・メルロ=ポンティは「見る」ことを、カメラのように一点に立って世界をフレームに閉じ込める行為とは考えなかった。


彼が語ったのは corps propre、すなわち自ら体現された身体だった。


彼にとって見るということは、身体が世界の中にありながら同時に世界へと開かれている、それ自体がひとつの出来事だった。


レンズのように一つの視点に固定されず、動きながら背景と前景を同時に生き、対象と自分との距離そのものを感じながら見る身体。


だから目がレンズに劣っているのではなく、両者はもともと異なる仕方で世界を見ているのだ。

 

 

夫と一緒に歩いた記憶がいつも地縛霊のように現れる場所。今日はその実体に会いに来た日だからだろうか……


躊躇いも消えていた。淡々とした気持ちのまま歩いていると、郵船ビルディング、二重橋といった名前がようやく目に入ってきた。


買うことも住むこともできない街なのに、まるで内見にでも来た人のように、建物のひとつひとつを目に焼き付け、自分だけの記憶にしまい込んだ。