旧宮家について解説しようと思います。
これ、歴史も含めて書くと、かなり長くなりそうですので、核心部分から先に書きます。
万世一系の皇統維持のためのバックアップ
非常に不遜な表現で宜しくないですし、申し訳なく存じますが、一番わかりやすく言うと、
宮家は天皇家に男子が生まれなかった場合に備えてのバックアップです。
天皇ご本家同様、神武天皇のY遺伝子を受け継いできた方々がいます。つまり、同一血統の一族ですね。
天皇ご本家に男子が生まれなかった場合、宮家の方に天皇に即位していただく仕組みになっていたのです。
天皇ご本家と宮家の分岐時期
天皇家と宮家は、約600年前 (室町時代) に血筋が枝分かれしました。
旧11宮家はすべて、室町時代の皇族である伏見宮貞成親王(ふしみのみや さだふさしんのう / 1372〜1456年)、あるいはその息子で第102代天皇となった後花園天皇の男系子孫(伏見宮系統)です。
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伏見宮貞成親王:第97代 崇光天皇の子に当たる伏見宮栄仁 (なかひと) 親王の子に当たり、第102代 後花園天皇の父。
伏見宮家は「世襲親王家」として、何百年もの間、民間人になることなく男系の血統を維持し続けました。
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宮家が幾度か皇統の断絶を救った
日本の歴史上、天皇ご本家に男子が生まれず、血統が途絶えかけたことは何度もありました。幾度かその危機を救ったのが宮家の存在です。
よく知られている例)
第118代 (江戸時代)・後桃園天皇が22歳の若さで崩御された際、娘のみで男子がいませんでした。この時、バックアップである世襲親王家の一つ「閑院宮(かんいんのみや)家」から、わずか9歳の男児が迎えられて即位しました。これが第119代・光格天皇であり、**現在の天皇家(今上天皇)はすべてこの光格天皇の直系子孫**にあたります。
もし宮家がなければ、江戸時代で万世一系の皇統が途切れ、現在まで皇室が続いていたかどうかわかりません。
臣籍降下
時代は下り、明治政府は、明治22年 (1889年) 「明治皇室典範」で、「永世皇族制(生まれた子は原則ずっと皇族とする制度)」を定めました。
ところが、皇族の数が増えていき、すべての皇族に税金から歳費 (皇族費) を支出し続けることが、当時の国家財政にとって大きな負担になりました。
明治政府は、将来の皇統危機を見越して宮家を温存しよう、皇族の数をできるだけ多く確保しようと考えたのでしょうが、実際は、「財政上、皇族が増えすぎるのを防ぎ、適正な規模に縮小しなければならない」という現実に直面したわけですね。
そこで、明治40年 (1907年) に皇室典範を改正し、「一定以上に血縁が離れた皇族は、皇籍を離れて民間人(臣籍降下)になってもらう」というルールを追加しました。
GHQによる日本破壊策略 (皇籍離脱)
大東亜戦争後、GHQ (連合国軍最高司令官総司令部) は、一つの方法として、万世一系の皇統を断絶させれば皇室の存在意義はなくなり、日本人は精神的・文化的主柱を失い、日本の強さの大きな要因であった家族的国家観を奪い取り、日本を骨抜き状態に追い込むことができると考えました。(今回は触れませんが、日本を弱体化させるための策略はこれだけではありませんよ。)
そのため、宮家を皇族から離脱せざるを得ないように追い込みました (皇籍離脱)。
具体的には、皇族財産に高額の税金を課し、皇室全体の財政をひっ迫させ、皇室の存続さえ危うくなるように仕向けました。日本政府と昭和天皇はやむなく、昭和天皇の直系である秩父宮・高松宮・三笠宮以外の、血縁の遠い伏見宮系11宮家には皇族から民間人になってもらうという言う決断をしたのです。
皇籍離脱した11宮家:久邇宮、賀陽宮、東久邇宮、竹田宮/伏見宮 (断絶見込み)、朝香宮 (断絶見込み)/閑院宮 (すでに断絶)、山階宮 (すでに断絶)、梨本宮 (すでに断絶)、北白川宮 (すでに断絶)、東伏見宮(すでに断絶)、
共産党の論法は意味がない
万世一系の皇統を維持するためのバックアッップ要員であるという宮家の使命を考えると、共産党の言う「36~38親等離れているほとんど赤の他人」と言う論法は意味を持たないんですね。
万世一系の皇統の本質から国民の目をそらさせるための詭弁です。政治的プロパガンダでしかありません。
たかだか130年程度の歴史の民法上の理論で語ってよいものではないのです。
2686年という連綿と続いてきた歴史の積み重ねの重みをどう考えているんだ?と問いたいですね。
わざと本質に触れないマスゴミや日本破壊勢力の言うことに騙されないでくださいね。
私が「同感!」と思った動画のURLを載せておきます。
これ、私が感動した動画です。
なぜ、天皇は必然なのか。|三島由紀夫|天皇論|日本の文化|
