痛み。
よくうちのゼミでも扱う話題。
こんなところに書いたからといって結論が出るような話でもないんだけど。
そしてもしかしたら痛みを根本的に解決する方法って皆無に等しいかもしれないんだけど。
最近就活をしていると、転機になった出来事として東日本大震災の津波の映像が流れることがある。
もちろん、軽くだけなんだけど。
それでも、そういう映像を見るたびに、言葉が出なくなって、もうなんか泣くしかない感情に襲われる。
でも、そういう映像を見て涙を流してみて思うのは、自分には泣く資格すらない、ということ。
東北に直接のつながりがあるわけでもないし、
だから自分と直接つながってる人が亡くなったわけでもないし、
震災後に東北に行ったことすらないし、
しかも震災後は1年間も日本を離れていたし。
だから、自分みたいな人間が泣くと、泣いてること自体に罪悪感を覚えたりする。
泣く資格なんてない。
私も私なりに痛みを感じているから泣くんだとは思う。
でも、私は震災に対する痛みを語ることには後ろめたさを感じる。
痛みを語れるほど問題を直視できてないから後ろめたさを感じるのかな。
それでも痛みを感じてるのは確かなんですよね。
でも、少し視点変えてみると、私だって震災を経験しているという意味では被災者だと言えるかもしれない。
私が最近見かける津波の映像は、直接ではないにせよ、少なくともリアルタイムで、2年前テレビで見ていた映像で。
そういう映像を見ると、何の記憶かはわからないけど、やっぱり色んな記憶がぶりかえし、それと同時に当時の、パニックに近いような感情もぶりかえしてくる。
たまに少し大きい地震が起きても、一瞬ものすごく怖くなるし。
地震そのものに対する記憶よりも、地震が起きた後の、社会全体の不安感に対する記憶であるような気はするんですが。
自分は被災者だというのは、自分が可哀そうだということを言いたいわけではなくて、
震災はこんな風に、「関係のない」こんな自分にでさえもしっかり痛みを残したんだと言いたいんです。
(そしてこういう感覚になる人は、私だけではないとも思う。)
でも、私は何も失わなかった。
だから、そういう痛みは、目をそむけようと思えばそむけられる。
そのくらいには痛みは軽いのかもしれない。
要は、痛みがあるないの問題ではなく、その痛みを忘れた「ふりができるかどうか」が重要なのかな、と思った。
そして忘れた「ふり」ができるとき、大抵その痛みは忘れていたい痛みなんだと思う。
本当に忘れたんではなく、思い出したくない痛みなんだと思う。
思い出さないでいられること自体が「幸せ」なことなんだけど。
ここで少し痛みの話を広げてみたい。
痛みを忘れたふりができないっていうのは、痛みを日常生活から動かすことができないときに起こることなのかなと思ってみた。
当たり前の日常が送れていなかったり、
もしくは痛みの原因が自分以外のとろにあったりするとき、
その痛みは「どうしようもなくなる」。
そしてそういう痛みほどずっしりと重く痛むから、もっとつらくなる。
そしてそういう絶対に動かせないのに痛む痛みには、不条理っていう言葉がものすごくしっくりくる気がするんです。
そして不条理は、実はいろんなところにある。
誰もが抱えてるとも思う。
もしくは誰もが生み出してさえいるとも思う。
いじめも、
国の力も、
金の力も、
自然の力も。
色々あって、そしてどこにでもあると思う。
震災の話に戻してみても、一概には言えない色んな痛みがある。
そしてその痛みの原因が、津波のせいなのか、原発のせいなのかで、その人の痛みの質も変わるような気がする。
そしてその痛みの根源は、その根源が人為的であればあるほど、ものすごく近いところにあったりすると思う。
ていうか一緒でさえあるかもしれない。
原発の問題と、沖縄の基地問題って、すごく似てると思うし。
構造的に問題を見ると、実は、色んな問題が一つの構造に収まっていたりする。
そしてその構造は、爆弾使ってでも崩れないくらいものすごい力を持っている。
「動かせない」かんじ。
まだ中途半端だけど、とりあえずまとめたいと思います。
私は、痛みは、まずは受け入れなきゃいけないものだと思ってます。
本当はめちゃめちゃ悔しくて、受けいれがたいとは思うけど。
でも、どんなに悔しくて悲しくても、受け入れきゃいけない。
そうでないと、前に進めない。
前に進めないと、本当に痛みと向き合うことはできない。
個人的な痛みでも、構造的な痛みでも、どちらにしても。
そして色んな痛みが実は似ているのなら、まずは自分の痛みをちゃんと受け入れないと、他の人の痛みのために役に立つことすらできないと思うんです。
だから、痛みがある人は、つらくても受けいれなきゃいけない。
でも、そうやって痛みを乗り越えた人は、とても強いと思う。
まとまらないけど、これが今私が思うことです。