1979年4月、インドのベナレス(バラナシ)に一人滞在していた。 渦巻く喧騒と混沌、生と死のカオスに揉みくちゃにされながら生きていた。

40数年前のベナレスは清も濁も、富も貧も、生も死も、全てか身近だった。

幾ら若くても、旅に疲れていたのかも知れない。

ある晩、急に荷物をまとめ、列車でゴラクプールを経由して、ネパールのポカラに入った。

言語も食べ物もかなり似ている国なのに、ポカラには静寂があった。 落ち着きがあった。

 

インドでは街を歩けば、ハシシを買わないか、ボート乗らないか、時計売らないか、絨毯見に来いと、人の誘いを断りながら歩いていたのにと、感動すら覚えた。

 

宿の近くにはペワ湖と言う大きな湖があり、晴れた日にはアンナプルナ山峰が良く見えた。 

ポカラの空港は舗装されてなく、飛行機が来る前にはサイレンを鳴らして放牧してある牛を人が追い立てるという、まぁ随分とのんびりしたものであった。     

                                                        ポカラ空港

まだ東洋人の旅行者はほぼ日本人であり、韓国人や

中国人は何ヵ月旅しても会う事はなく、アメリカ人の旅行者は希で、西欧系はドイツ・ベルギー・ホーランド・フランス人が多かった。

滞在していた村からは朝陽・夕陽を浴びて輝くマチャプチャレ(Fish tail)が良く見え、それらの白い雪の峰々の眺めは、必ず又此の地に戻って来ようと決心させるに充分な力を持っていたのだが・・・・。

あれから40数年。 何かポカラに忘れ物をしてきたような気がしてならないのだ。



もう何十年北海道に通っているのだろう。
何が飽きさせない魅力になっているのだろうか。

今年も三週間程滞在していたけれど、また今までと違う発見があったし、次回はこうしたいという楽しみの種も見つけられた。

一番最初は1975年、ワーゲンで旅をした。古い写真を見ると、景色は驚く程に変わっていない。ただ、ガードレールや側溝、標識が無かったり、何だかアジアの何処かの国の様だ。

 

 
この2年後に初の海外放浪に旅立ち、それからインド、ネパールを始めアジア各国を巡り、1990年まで北海道へは来れなかった。
1990年からは、毎夏に今は無い「モトトレイン」で来ていた。
夕暮れせまる上野駅、家路につくサラリーマンを横目に、ホームをキャンプ道具満載のバイク押して歩く。
寝台列車でバイク仲間と酒飲みながら一夜を過ごす。
 
 
夜中に見知らぬ東北の駅を通過していく寝台列車。
今思うと、あれはあれでなかなか旅情があって良かったなぁ~。
インフラや都市部は随分変化したけれど、まだまだ残る大自然が北海道の大きな魅力なのだろう。
 
これは今年2022年。
写真の鮮明度が上がっただけで、景色は30年前も40年前も、大して変わってはいない。
 


 

1978年に台湾を二ヶ月かけて一周した。

前年の1977年(昭和52年)のタイ・マレーシア旅では、ペナンを去る早朝まだ暗い中、アザーンが響く道をザックを背負って歩きながら「俺は生涯でもう一度海外へ来れるのだろうか」と真剣に考えていたのに・・・・。

77年は結局マニラ経由のPK(パキスタン航空)で行ったのだが「格安航空券」は本当に出始めたばかりの時で、当時そんな情報などどこにも無く、真剣に貨客船で行こうと、あちこちの船会社に電話して探したのだから、今から思えば笑い話だ。

今と違い、タイは英語が通じずタイ語もできずで苦労したけれど、78年の台湾ではまだ日本語がいたるところで通じ、とにかく旅が楽だった。 

気楽な旅で、新竹と言う小さな街でおじさん、おばさん、と仲良くなって長逗留したけれど、今では台湾のシリコンバレー!!と呼ばれている大都市になってしまっていて、まぁ40数年と言う年月を感じざるをえない。

何だか素朴で、若いのにのんびり温泉巡りなんてしたりして、初めはひと月で一周するつもりだったのに、反時計回りで南の高雄に着いた時にはビザ切れ寸前。

高雄警察で延長して余裕ができ、台東から蘭興島に渡りヤミ族の部落で生活したり・・・。

九州より小さな台湾に二ヶ月。

結婚してからも二人で何回も訪れたけれど、あの時の台湾とはもう何かが違っていた。

旅は早い内に行くのに限ると、歳を重ねてからしみじみ思う。

1977年のチェンマイ。

今になって写真をみれば、とにかく車が少ない事に驚いてしまう。

 
 

当時チェンマイへはペナンからマレー鉄道で来たので「静かな街」ぐらいの印象だったのだが、バンコクでさえも車が少なかったので、今なら思う「車が少ない!」などという感慨は一切なかったのだ。
一枚目は堀の外通りのコチャサン通りで、現在のターぺー門から続く渋滞を思えば正に隔世の感がある。
 
 
当時ターぺー門は車両が通行でき、今の広場のあたりに当時は珍しかったオープンな小屋がけのカフェーがあった。
大学生のような若い子達が店をやっていて、二日に一回くらいの割で通っていた。 
ちょうど店の前が力車だまりになっていて、そこで店の子と話しながらコーヒーを飲んでいると、背中に聞くキーコキーコという力車の音で「あ、いま客が来て力車が出ていったな、あ、今一台帰ってきた」とわかるのだった。
現在のターぺー門は・・・・・・。サムローも無いし、大体車とバイクの騒音で、何一つ聞こえやしない。

子供達が堀で泳いでいる写真も多く撮っている。
水も今と比べれば随分とキレイだ。

あの頃・・・・堀沿いに数人で歩いていて、堀の反対側に日本人旅行者(当時はアジア人旅行者=日本人だった)を見つけると、みんなで「お〜い、日本人か!? そうか、まあ、とにかくこっちへ来いよ!」とやっていたのだが、それを向こうもこっちも少しも不思議に思わなかったのだ。
今なら完全に奇人変人扱いだが、それだけ昔は旅人が少なかったのだ。
 
 

あれから幾星霜。
その後も旅ばかりの人生ではあったけれど、この初めての海外一人貧乏旅が、インドよりもアメリカよりも、ヨーロッパよりも、一番印象に残っている。