蛤御門から東へ進んだ北側に京都御所があり、その通りと南北の通りが
交差する所に清水谷家の椋の木が立っています。
かってこの地に清水谷家の屋敷があったことから「清水谷家の椋」と呼ばれ、
苑内でも数少ない樹齢約300年の椋の大木です。
来島又兵衛(きじま またべえ)は蛤御門の戦いで、自ら遊撃隊600名の兵を率いて、
激戦を繰り広げたのですが、この木の付近で、薩摩藩兵・川路利良の狙撃で
胸を撃ちぬかれ、その後自決しました。
京都御所の東側の塀沿い北へと進んだ東側に「桜松」と呼ばれ、
クロマツの樹上十数mの高さの所に山桜が生育していました。
平成8年(1996)4月17日に松が枯れ、倒れてしまったのですが、
桜は松の空洞を通り抜けて地上に根を下していたので今も花を咲かせています。
この日も数輪の花が見られました。
「桜松」の北側に学習院発祥の地があります。
公家の教育振興に尽力した第119代・光格天皇ですが、次の仁孝天皇の在位中の
弘化2年(1845)に幕府から学習所の設置が認められ、更に次の孝明天皇在位中の
弘化4年(1847)になって学習所が開講されました。
嘉永2年(1849)に孝明天皇から「学習院」の勅額が下賜され校名が定まりました。
公家や御所に勤める役人たちとその子弟に、漢学や和学などを教える場と
なっていましたが、大政奉還後には政治の混乱から一時閉鎖されました。
半年後の慶応4年3月12日(1868年4月4日)に再開されたましたが、
4月15日(5月26日)に学習院は大学寮代と改称されました。
更に9月13日(10月28日)に国学中心の皇学所と大学寮代を改組した
漢学中心の漢学所の2校体制に移行しました。
しかし、東京奠都が決定されると、明治2年9月2日(1869年10月6日)には皇学所と
漢学所の廃止命令が出され、8日後に廃止されました。
明治10年(1877)に華族学校学則が制定され、神田錦町にて華族学校が開校され、
改めて明治天皇から「学習院」の勅額が下賜されました。
明治17年(1884)には宮内省所轄の官立学校となりましたが、昭和22年(1947)に
学校教育法と教育基本法が施行され、学習院は私立学校となりました。
学習院発祥の地の北側に橋本家跡があります。
和宮親子内親王・生誕地の碑
弘化3年(1846)、孝明天皇の異母妹・和宮親子(かずのみや ちかこ)内親王の
誕生の地とされ、14年間橋本家で養育されたました。
和宮内親王は仁孝天皇の第八皇女で、母親は側室の橋本経子(つねこ)でしたが、
仁孝天皇は和宮の誕生に先立つ1月26日に崩御され、
和宮は勅命により橋本邸で養育されました。
嘉永4年(1851)7月12日、孝明天皇の命により有栖川宮熾仁
(ありすがわのみや たるひとしんのう)親王と婚約しましたが、
公武合体政策を進めるため、有栖川宮熾仁親王との婚約は破棄され、
14代将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)へ嫁ぐこととなりました。
京都御所の北西角は「猿ヶ辻」と呼ばれ、日吉山王神社(ひえさんのうじんじゃ)の
使者である木彫りの猿が鬼門を守護しています。
烏帽子をかぶり、御幣をかついだ猿像ですが、夜になると付近をうろつき、
いたずらをしたために、金網が張られて閉じ込められています。
幕末の文久3年(1863)5月20日の夜半、攘夷派の急先鋒であった
姉小路公和(きんとも)がこの付近で3人の刺客に襲われて重傷を負い、
帰邸した翌日21日未明に25歳で亡くなりました。
「猿ヶ辻」から御所の塀沿いに西へ進むと御所の朔平門(さくへいもん)があり、
「朔」には「北」の意味が含まれています。
朔平門から西へ進んだ先に烏丸通に面した北端の乾御門があります。
乾御門を入った東南角に一条邸跡があります。
一条家は九条道家の三男・実経(さねつね)を祖とし、仁治3年(1242)に
一条室町にあった父・道家が創建した一条殿を受け継いで住んだ事が
家名の由来となりました。
五摂家の一つとなり、代々摂政、関白に任ぜられ、序列は近衛家に次ぎ、
九条家とは同格、二条家、鷹司家の上位に列しました。
幕末期の当主・一条忠香(いちじょう ただか)の三女・美子(はるこ)が
明治天皇の皇后となりました。
一条邸跡から北東方向へ進んだ所に近衛邸跡があります。
近衛邸跡には池がありますが、平成天皇が後日訪問される予定からか、
池に水は無く修復工事が行われていました。
池の畔は糸桜(枝垂れ桜)の名所で、天皇もこの桜を楽しみにされているようです。
近衛家は藤原忠通の四男・近衛基実(このえ もとざね)を家祖とします。
基実は長寛2年(1164)2月に父・忠通が急死した2か月後に平清盛の娘・盛子と
結婚しましたが、永万2年(1166)7月26日、僅か24歳で病死しました。
基実の子・基通(もとみち)は6歳の時に父を亡くすと、
継母・盛子の後見を受け摂関家を継承しました。
基通は近衛大路(現在の出水通)室町付近に邸宅を築き「近衛殿」と称したことが
家名の由来となりました。
鎌倉時代中期には近衛家実の四男・兼平により鷹司家が立てられました。
江戸時代前期、近衛 信尹(このえ のぶただ)は継嗣を欠いたため、
妹の前子(さきこ)が後陽成天皇との間に儲けた四之宮を後継に選び、
近衞信尋(このえ のぶひろ)と称し、近衞家19代目当主としました。
以後、近衛家は皇別摂家となり、五摂家の中でも特別扱いされるようになりました。
近衛邸跡の東側に桂宮邸跡がありますが、門は閉じられ見学はできません。
智仁親王が造営した庭園および池が完全に残され、幕末には孝明天皇が
仮皇居としたため、皇女・和宮親子内親王はここから江戸へ嫁ぎました。
本来あった建物は二条城の本丸として移築され、現在は宮内庁職員の宿舎として、
複数の平屋の公営住宅が建っているようです。
桂宮は正親町天皇(おおぎまちてんのう)の第一皇子である
誠仁親王(さねひとしんのう)の第六皇子・智仁親王を祖としています。
智仁親王は初め豊臣秀吉の猶子となりましたが、秀吉に実子が生まれたため
豊臣家を離れてあらたに秀吉から邸宅と知行地を献じられ、一家を立てました。
智仁親王が造った別邸が桂離宮で、八条通の沿線上にあったことから
八条宮(はちじょうのみや)と呼ばれました。
桂宮邸跡の東側に中山邸跡があります。
中山家は花山院忠宗の子・中山忠親(1131~1195)を祖としています。
江戸時代末期の当主・中山忠能(なかやま ただやす)の次女・慶子(よしこ)は、
嘉永5年9月22日(1852年11月3日)に孝明天皇との間に皇子・祐宮(さちのみや=
後の明治天皇)をもうけ、4年間は中山邸で育てられました。
当時、中山家は家禄が二百石で建築費用の大半を借金して産屋を建てたとされ、
今も敷地内に残されているそうですが、立ち入りは禁止されているようです。
また、敷地内には「祐井(さちのい)」と名付けられた井戸が残されています。
祐宮が二歳の時、干天で井戸が枯れたため、新たに掘られたものです。
中山忠能の七男・忠光は京都を脱出して長州藩に身を投じ、官位を返上して
森俊斎(秀斎)と改名し、久坂玄瑞が率いる光明寺党の党首として下関における
外国船砲撃に参加しました。
文久3年8月17日(1863年9月29日)に大和国で決起し、「天誅組の変」を起こしましたが
敗れ、長州へ逃れた後、暗殺されました。
中山忠能もまた、「蛤御門の変」では長州藩を支持しましたが、結果的には失敗し、
孝明天皇の怒りを買って処罰されました。
その後、岩倉具視らと協力して王政復古の大号令を実現させ、
小御所会議では司会を務めました。
中山邸跡から東へ進んだ所に石薬師御門があります。
かって、この門の付近には真正極楽寺(真如堂)がありました。
平安遷都の頃、大地より光沢のある蓮華のつぼみに似た大きな石が見つかり、
桓武天皇はその石に薬師如来を刻むことを命じ、お堂を建立して安置しました。
正親町天皇は真如堂の僧・全海にこの像を祀らせたことから、「石薬師通」の通り名となり、
その通りに建つ門は「石薬師御門」と称されるようになりました。
中山邸跡から南へ進んだ所に京都迎賓館があります。
残念ながら訪れた日は休館日で見学はできませんでしたので後日、掲載したいと思います。
京都迎賓館の東側を北へと進んだ所に染殿第跡があり、染殿井が残されています。
また、梨木神社にも染殿井が残されています。
平安京当時は北東端にあたり、「染殿」と称された藤原良房の邸宅跡とされています。
良房は延暦23年(804)に藤原冬嗣の二男として生まれ、弘仁5年(814)に
11歳で嵯峨天皇の皇女・潔姫を妻に迎えました。
天長10年(833)、第54代・仁明天皇が即位すると妹の順子(のぶこ)が女御となりました。
仁明天皇の皇太子には淳和上皇の皇子・恒貞(つねさだ)親王(母は嵯峨天皇の
皇女・正子内親王)が立てられました。
承和7年(840)に淳和上皇が崩御されるとその2年後の承和9年(842)7月には、
嵯峨上皇も重病となりました。
伴 健岑(とも の こわみね)と橘 逸勢(たちばな の はやなり)は、皇太子の座が
仁明天皇の第一皇子・道康親王(母は藤原順子)に奪われるのではないかと危惧しました。
二人は皇太子の身の安全を考え、東国への避難を画策しましたが、計画は露見しました。
7月15日、嵯峨上皇が崩御され、その2日後の17日、仁明天皇は伴健岑と橘逸勢、
その一味とみなされるものを逮捕し、その後恒貞親王は皇太子を廃され、
道康親王(後の文徳天皇)が皇太子となりました。(承和の変)
嘉祥3年(850)、仁明天皇が崩御され、道康親王が第55代・文徳天皇として即位しました。
文徳天皇が東宮の頃に、良房の娘・明子(あきらけいこ)が入内し、天皇即位の年の
3月に第四皇子・惟仁親王(後の清和天皇)が誕生しました。
仁寿4年(854)、左大臣・源 常(みなもと の ときわ)の没後は右大臣のまま朝廷の首班の
地位を占め、天安元年(857)には太政大臣、従一位に任じられました。
これは皇子以外では初めての太政大臣(大師,太政大臣禅師を除く)となります。
天安2年(858)8月に文徳天皇が突然の病で崩御され、第56代・清和天皇が僅か9歳で即位し、染殿第に移られ「清和院」と称されました。
現在の清和院御門はこのことに由来しています。
天皇が幼少であったことから良房が政治の実権を握りました。
貞観6年(864)天皇は元服したのですが、貞観8年(866)には伴 善男(とも の よしお)ら
によるものとされる応天門炎上事件(応天門の変)が発生しました。
伴 善男父子は流刑に処され、大伴氏は没落しました。
事件を解決した良房は、人臣として初めての摂政任じられました。

















