頂法寺(六角堂)は阪急「烏丸」駅の21番出口から烏丸通を北へ進み、

六角通を東に進んだ北側にあります。
頂法寺は山号を紫雲山と号する天台宗の寺院です。

烏丸通から東へ進み、頂法寺の山門の手前の南側に鐘楼があります。
平安京の町造りが行われた際、東西の小路が頂法寺に突き当たってしまうことになりました。
桓武天皇の勅使が赴き、寺の移転を願い出たところ、紫雲がわきおこって堂を包み、

北へ15mほど動いたと伝わります。
鐘楼はそのまま残されたのかもしれません。

 

梵鐘は慶長10年(1605)に豊臣政権三中老の1人である堀尾吉晴の嫡男・忠氏から

寄進されました。
一向一揆や鴨川の洪水、大火の際にはこの鐘が撞かれ、民衆に急を知らせました。
しかし、その鐘は天明8年1月30日(1788年3月7日)に発生した天明の大火で失われ、

天保11年(1840)に再鋳されました。
その鐘も太平洋戦争で戦時供出され、現在の梵鐘は昭和29年(1954)に再鋳されたものです。

山門を入った右前方に「へそ石」があります。
かっては六角通の真ん中に置かれ、明治維新までは堀川と東寺の南門の

石壇と六角堂のへそ石が平安京から位置が変わらぬものとされていました。
しかし、通行の邪魔になるとのことで明治10年(1877)に現在地に移されました。
へそ石のあった場所が、昔の京の中心であるとされ、「要石」とも呼ばれていました。
この石を基点にして平安京の条坊を定めたとも伝わりますが、

灯篭の台石であるようにも見え、正確には何に使われていたかは不明です。

「へそ石」から東側へ進むと石段があり、その脇に「一言願い地蔵」が祀られています。

石段を上った正面に親鸞堂があり、夢告を授かる姿の「夢想之像」と六角堂参篭の

姿を自刻したとされる「草鞋の御影」の2体の親鸞聖人像が安置されています。

親鸞は治承5年(1181)に9歳で出家し、比叡山に登って20年間修行しましたが、

建仁元年(1201)の春頃、29歳の時に比叡山を下り、六角堂へ百日参籠を行いました。
親鸞は聖徳太子を敬い、太子建立の六角堂へ百日参籠を行ったのですが、

95日目の暁に聖徳太子化身の救世観音菩薩から夢告を受けました。
この夢告に従い、夜明けとともに東山吉水(京都市東山区円山町)にある法然が住していた

吉水草庵を訪ね、岡崎の地(左京区岡崎天王町)に草庵を結び、

百日にわたり法然の元へ通い、そして法然聖人の弟子となりました。

親鸞堂の斜め前には親鸞聖人像が祀られています。
参籠の後、比叡山に戻る姿とされています。

親鸞堂から奥へ進み、西側へ階段を上った所に日彰稲荷社があります。

日彰稲荷社の左側に頂法寺の鎮守社である唐崎社があり、

天満宮と祇園社が合祀されています。
唐崎神社は大津市唐崎にあり、日吉大社の境外摂社で、

女別当命(わけすきひめのみこと)が祀られています。

日彰稲荷社から階段を下った左側に観音菩薩像が祀られています。

観音菩薩像の右側には如意輪観音菩薩像が祀られています。

親鸞堂から下ってきた東側から北側に放生池があります。
東側の池には石が組まれ、その上には十六羅漢像が祀られ、

池の中央の石の上には合掌地蔵が祀られています。

北側の池の上には太子堂があり、聖徳太子が祀られています。
堂内には太子が合掌して「南無仏」と唱える二歳像、父である用明天皇の病気平癒を祈る

十六歳像、仏教の受容をめぐって物部守屋と戦った姿を表す騎馬像が安置されています。

平安京遷都以前、この地には池があり、周囲は森が拡がっていたと伝わります。
用明天皇2年(587)、聖徳太子は小野妹子を伴い、四天王寺建立のため、

良材を求めてこの地に立ち寄りました。
太子は淡路島に漂着した如意輪観音像を念持仏として、常に持ち歩いていたのですが、

池で沐浴をするためにこの像を木に掛けたところ、動かなくなりました。
その夜、太子の夢枕に一人の媼(おうな)が立ち、「近くに紫雲たなびく大杉の

霊木があるので、それで寺を建てよ」と告げました。
翌朝、太子は告げられた大杉を見つけ、その一株で六角の堂が完成すると、

動かなかった念持仏も堂内に安置することができました。

 

現在、太子が沐浴された池は人工的なもので再現されています。
池の畔に坊が建てられ、頂法寺の住職は池坊と呼ばれました。
小野妹子は頂法寺の初代住職として、朝夕、仏前に花を供えたことが

後の華道の始まりとされています。
華道・池坊は小野妹子を始祖としています。

六角堂の正面に戻ります。
千鳥破風付きの礼堂
昭和49年(1974)から翌年にかけて実施された発掘調査では、飛鳥時代の遺構は検出されず、実際の創建は10世紀後半頃と推定され、平安京内で初の私寺との説もあります。
平安時代中期には観音信仰の高まりとともに六角堂の名が頻繁に登場するようになり、

「観音験(しるし)を見する寺」とうたわれています。
寛正2年(1461)に起こった中世最大の飢饉とされる山城大飢饉(寛正の大飢饉)の際、

室町幕府8代将軍・足利義政は、この堂の前に救済小屋を建て、時宗の勧進僧・願阿弥

命じて、洛中に流入した貧窮者に対し、粥施行(かゆせぎょう)を行なわせました。
しかし、飢民の数があまりに多く、資金が尽きて1ヶ月程で施食を止めざるを得ませんでした。
この飢饉で京だけでも8万2千人の死者が出て、鴨川は死骸で埋まる惨状となりました。
余談となりますが応仁の乱(1467~1477)後、願阿弥は焼失した清水寺の再建に奔走して

諸国を回り、文明16年(1484)に清水寺の本堂が再建されました。
寺再建の功労者として「成就院願阿」と呼ばれました。

東南方向からの六角堂
応仁の乱後、寺は町堂として町衆の生活文化や自治活動の中核となる役割を果たしました。
天文5年(1536)に起こった延暦寺宗徒による天文法華の乱では集結地となり、

永禄12年(1569)の織田信長の上洛に対抗した三好三人衆が来襲の際には

早鐘が撞かれました。
また、天正15年(1587)には下京町組が結成され、代表の集会所にもなりました。
近世、六角堂は観音霊場として庶民の信仰を集め、寺内には多聞院、不動院、

住心院、愛染院などが建ち並び、門前町が発展しました。
巡礼者のための宿屋が数多く建ち並び、洛中では有数の旅宿町として栄えました。
文禄元年(1592)、豊臣秀吉は寺院を寺町通に集めましたが、

町組の結束の強さから六角堂は外されました。

北西方向からの六角堂
六角堂は天治2年(1125)に初めて焼失の記録があり、江戸時代の

元治年間(1864~1865)までに確認されているだけでも18回の災害に見舞われています。
寛永18年(1641)には内裏造営の際の余材で本堂や四脚門が再建されるなど、

焼失の都度、幅広い信者や町組の中核となる寺として再建されてきました。
現在の本堂は明治10年(1877)に再建されました。
六角堂の「六角」とは六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)によって生ずる六欲を意味し、

これらを捨て去って角を無くし、円満になるという祈りを込めた形と伝えられています。

本尊は如意輪観音で、度々の火災でも護られており、秘仏とされています。
また、西国三十三所観音霊場・第18番及び洛陽三十三所観音霊場・第1番の

札所本尊でもあります。
脇侍として毘沙門天立像と地蔵菩薩立像が安置されています。
毘沙門天立像は平安時代作で像高102.3cm、一木造りで

国の重要文化財に指定されています。

堂内には多数の仏像が安置されており、その一部は本堂の背後にある

小窓から拝することができます。

また、西側に隣接する展望エレベーターから上から六角の屋根を見ることができます。

本堂の斜め前の左側に不動堂があり、不動明王が祀られています。

不動堂の右側には水掛不動尊が祀られています。

本堂の西側には地蔵尊の石像が並んでいます。

北向き地蔵尊は御所を護るために北を向いているとされています。