清水寺から松原通りを西へ下り、東大路通を横断して六道珍皇寺(ろくどうちんこうじ)に
立ち寄り、更に松原通りを西へ進んだ三叉路の角に西福寺(さいふくじ)があります。
西福寺は正式には山号を桂光山、院号を敬信院と号する浄土宗の寺院です。
西福寺が立地する髑髏町(どくろちょう)は「六道の辻」と呼ばれ、
古くから死者の埋葬地であった鳥辺野(とりべの)の入口に当ります。
かって、この地は葬送地に送られる亡骸の無常所になっており、6つの仏堂がありました。
現在は3つのこされ、西福寺はその一つとされています。
西福寺は第52代・嵯峨天皇の御代(809~822年)に空海が辻堂を建立し、
土仏の地蔵尊を安置したことに始まります。
嵯峨天皇の皇后、橘嘉智子(たちばな の かちこ=檀林皇后)は度々この地蔵尊を参詣し、
空海に深く帰依するようになりました。
弘仁5年(814)、嵯峨天皇と皇后の皇子・正良親王(後の仁明天皇)が病の際は、
この地蔵尊に祈願を行い、無事平癒したことから「子育て地蔵尊」や
「六波羅地蔵」と呼ばれるようになりました。
門を入った正面の不動明王は「末廣不動明王」と称され、鎌倉時代に
後白河天皇上皇(1127~1192年)により勧請されたと伝わります。
後白河上皇は熊野詣に際し、地蔵尊に道中の安全を祈願し、
帰京後、那智の不動尊を勧請して地蔵尊の守護神としたとされています。
室町時代以降、付近に熊野比丘尼が移り住み、熊野観心十戒図を用いて
熊野詣の勧進が行われました。
寺には熊野観心十界図が残され、住職による地獄絵絵解きが行われていましたが、
住職が他界されてからは中断していました。
現在は京都造形芸術大学・学生プロジェクトにより絵解きが復活されています。
慶長8年(1603)、関ヶ原の戦いの後に斬首された安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)の
菩提を弔うため、毛利家臣・井上安芸守が蓮性を開山としてこの地に寺院を建立しました。
山号を桂光山、院号を敬信院、寺号を西福寺と号しました。
その後衰微しましたが、享保12年(1727)、関白・二条綱平が
亡き父・九条兼晴を追悼するために再興されました。
地蔵堂
現在の本尊は像高86.6cmの阿弥陀如来坐像で、
室町時代の長禄元年(1457)の墨書があります。
六波羅蜜寺前の通りが北へ突き当たった所に「幽霊・子育飴」を販売している
「みなとや幽霊子育飴本舗」があります。
慶長4年(1599)の夜更け、一人の女性が「みなとや」を訪れ、
一文銭で飴を買うと暗闇に消えました。
翌日も、またその翌日も女性は飴を求めて訪れ、
七日目の夜は一文銭が「しきみの葉」と化しました。
不審に思った「みなとや」の主人が女性の後を追うと、
女性は墓地の中に入って姿を消しました。
翌朝、主人は寺の和尚に経緯を話し、和尚と共に六日前に出産間際の
若妻の仏を葬ったとされる、新しく盛土された墓の前へと行くと、
墓の中から赤ん坊の泣き声が聞こえてきました。
墓を掘り返すと、母親に抱かれた赤ん坊が飴をしゃぶって泣いていました。
助け出された子供は寺に預けられ、やがて高僧になったと伝わります。
また、「みなとや」にはその日以来、その女性は現れなくなりました。
松原通を西へ歩いて行くと、美容室から出てきた舞妓さんを見かけました。
「みなとや幽霊子育飴本舗」から10分足らず歩いた所に南北の宮川町通があります。
かっては遊郭があった所で、今も花街としてその名残を留めています。
因みに「宮川」とは四条大橋辺りの鴨川の別名で、八坂神社の神輿を洗うための
水を汲む地であったことに由来しています。
頂法寺(六角堂)に続く







