園城寺(三井寺)の大門(仁王門)前を北へ進んだ所に圓満院があります。
通常は駐車場へと続く車道からは境内へ入りますが、

それを北へと通り過ぎた所に勅使門があります。
かっては天皇や天皇の指示や意思を天皇の代わりに伝える

勅使の来山の際に限って開かれる門でした。
現在はその門をくぐっても前は石垣で、左に曲がると駐車場へと出てしまいます。

境内に入った右側にコンクリート造りの三心殿があり、二階が不動堂になっています。
本尊は金色不動尊で、近畿36不動尊霊場・第25番札所の本尊でもありますが、

秘仏とされています。

手前の塔には梵鐘が吊るされています。

三心殿の向かいに、奥に見える宸殿への大玄関があります。
大玄関の前には白砂が敷かれ、その手前には青竹で結界が張られています。
結界は天皇の行幸の場合のみ開けられます。

食事処である遊々館沿いに奥へ進むと「三井の名水」が湧き出て、

持ち帰る人も見られます。
拝観受付所で500円を納めて宸殿へと向かいます。

宸殿の間取りは南北2列の計6室からなり、北側にある間では

投扇興(とうせんきょう)が楽しめるようです。
的は「蝶」、的を載せる台は「枕」と呼ばれ、「蝶」に向かって扇を投げ、

その扇・蝶・枕によって作られる形を、源氏物語や百人一首になぞられた

点式にそって採点し、得点を競うものとされていますが、理解できていません。
平安時代から行われていたと思っていたのですが、

江戸時代中期の安永2年((1773)頃に始まったとされています。

南側の中央には座禅の間がありますが、観光用に変更されたように思えます。

座禅の間の縁側手前には椅子が置かれ、楽な姿勢で庭園を鑑賞することができます。
庭園は室町時代の造園家・相阿弥(そうあみ)の作と伝わる池泉観賞式庭園で、

国の名勝及び史跡に指定されています。
中央に細長く池を掘り、建物と池の空き地には白砂が一面に敷きつめられ、

池の背後には自然の地形を生かした築山があります。

池の中には鶴島・亀島が浮かび、高く巨大な石橋が架けられ、池泉観賞式の

「鶴亀の蓬莱庭(ほうらいてい)」として不老長寿を願い、慶祝を表す庭となっています。

池の西側には滝組も見られますが、現在は水は流れていません。

座禅の間の西側の奥に玉座の間があり、ひな人形が飾られていました。
宸殿は元和5年(1619)に徳川第二代将軍・秀忠の息女である和子が、

後水尾天皇の女御として入内するにあたり、女御御殿として建立されたもので、

正保4年(1647)に下賜されたものです。

宸殿の西側に本堂があり、中央に不動明王、左右には歴代天皇の位牌が祀られています。
寺伝では寛和3年(987)に村上天皇の皇子・悟円法親王により創建されたと伝わります。
圓満院は歴代皇族の入室する門跡寺院で、平等院とも称されていました。
永承7年(1052)、藤原頼通は父・道長の別荘「宇治殿」を寺院に改め、宇治平等院とし、

開山(初代執印)には園城寺長史・明尊(みょうそん)が就きました。
明尊は三井平等院を圓満院と改めましたが、室町時代後期まで

通称で三井平等院と呼ばれていたそうです。
また、一説では明尊が長久元年(1040)に後朱雀天皇の支援を受けてこの地に

圓満院を創建したとも伝わります。
明尊は小野道風の孫で、幼いときに園城寺に入り、余慶から顕教・密教の2教を学び、

慶祚(けいそ)からその奥義を伝授されました。
明尊は圓満院に住し、園城寺法務を兼ね僧正にまで至りました。
圓満院は戦後、園城寺から離れ単立寺院となっています。

本堂前から重要文化財に指定されている宸殿の全景が見えますが、

屋根はトタンで修理されています。
宸殿以外の建物も老朽化が進み、雨漏りの跡も見られます。

 

本堂から北への廊下を進み、二階にある大津絵美術館へ向かいます。
大津絵は江戸時代初期の寛永年間(1624~1644)のころに、逢坂の関の西側に

位置する追分付近で、仏画として描かれ始めました。
松尾芭蕉の俳句「大津絵の 筆のはじめは 何佛」には、初期の大津絵の特徴を表しています。
文化・文政期(1804~1829)には「大津絵十種」と呼ばれる代表的画題が確定し、

一方で護符としての効能も唱えられるようになり、大津宿の名物となりました。
 大津絵十種には、小児の夜泣きを止め悪魔を祓う「鬼の寒念仏」や愛嬌加わり

良縁を得る「藤娘」、雷避けの「雷公」などがユーモラスなタッチで描かれています。
大津絵美術館は、先代門主が所蔵していた大津絵などの古今の作品を

公開される場として、昭和46年(1971)に開館されました。