C-51形は国鉄の前身・鉄道院(後、鉄道省に改組)により大正8年(1919)に開発され、
当初は18900形とされました。
諸外国で高速機関車に用いられる「パシフィック形軸配置」(2C1)を
国産設計の蒸気機関車として、初めて採用されました。
常用最高速度を100km/hとして計画されたことから、1,750mmという設計当時の
狭軌用蒸気機関車では世界最大の動輪直径が導出されました。
大正8年(1919)から昭和3年(1928)の間に合計289両が製造され、
昭和5年(1930)から昭和9年(1934)まで超特急「燕」の東京~名古屋間を牽引しました。
C51-239は昭和2年(1927)に製造され、お召列車専用として指定され、
104回運行されました。
その後、直江津機関区などへ転属となり、昭和37年(1962)10月26日に廃車となりました。
国鉄新潟教習所で保管されていましたが、教習所が移転後は放置されていたため、
長野工場で修復され、昭和47年(1972)9月27日に梅小路蒸気機関館に移されて
静態保存されるようになりました。
C53形は国鉄の前身・鉄道省がアメリカから輸入したC52形を解析して、
国産化した蒸気機関車です。
昭和3年(1928)から昭和5年(1930)にかけて、97両が製造された国産で唯一の
3シリンダーを持つ旅客用機関車で、梅小路や宮原機関区に配属されました。
東海道線や山陽線で特急列車なども牽引しましたが、構造が複雑なため
戦後間もなく引退し、C53-45は交通博物館に展示されるために
昭和36年(1961)に復元されました。
C59形はC53形の後継として鉄道省により、昭和16年(1941)から
昭和22年(1947)にかけて173両が製造された最後のパシフィック機です。
東海道線が電化されるまでは特急列車を牽引していましたが、
電化後は鹿児島本線や東北本線などへ転属されました。
また、一部は亜幹線にも使えるように従台車を2軸化して動軸重を15 tへ減らす
改造を受け、C60形となりました。
殆どの車両が昭和40年(1965)頃までに廃車になり、最後の定期運用となった
糸崎機関区での呉線・山陽本線運用(糸崎~広島間)での運用も
昭和45年(1970)までに外され、廃車となりました。
C59-164は呉線で最後まで現存していました。
尚、C59-1は九州鉄道記念館で保存され、広島市こども文化科学館横の
C59-161を含めた3両のみが保存されています。
右側のD52形は鉄道省により、D51形より高出力で主に東海道・山陽本線で
1200tの貨物列車を牽引することを目的に設計・製造されました。
昭和18年(1943)から昭和21年(1946)にかけて285両が製造された、
日本最大・最強の大型貨物用蒸気機関車です。
戦時設計車であり、運用上の酷使、工作や整備の不良から昭和20年(1945)中に
死傷者を伴うボイラー破裂・爆発事故を続けて3件も起こし、
一旦全車の使用が停止されることもありました。
当初は492両の製造が予定されていましたが、285両で製造は打ち切られ、
事故車や整備不良の55両は昭和21年(1946)から昭和25年(1950)までに廃車されました。
更に、戦後の貨物用機関車の余剰化と旅客輸送量の激増から
70両がC62及びD62に改造されました。
残った160両には改良修理が行われ、10‰勾配の連続する区間で牽引性能を
最大限に発揮し、東海道・山陽本線全線での1200t貨物列車運転を実現させました。
山陽本線の難所である瀬野~八本松間(瀬野八)の補助機関車としても使用され、
同区間を通る上り旅客列車と軽量の貨物列車には単機、
重量貨物列車には重連で充当されました。
昭和47年(1972)12月に函館・室蘭本線からも引退し、運用は終了されました。
左側のD50形は鉄道省により、9600形の後継機として大正5年(1916)頃から
計画が始まり、当初は9900形と称されていました。
大正12年(1923)から昭和6年(1931)にかけて国産初のミカド型(軸配置:1D1)を採用し、
380両が貨物用として製造されました。
昭和3年(1928)10月にD50形に形式変更されて、四国を除く全国で運用されました。
D50-140は直方機関区に配置され、昭和46年(1971)まで運用されていた最後の1両でした。
C58形はローカル線用の客貨兼用の機関車で、C57形に近いスピードと
D51形に近い牽引力を兼ね備え、昭和13年(1938)から昭和22年(1947)にかけて
427両が製造されました。
C58-1は昭和13年(1938)8月4日に製造され、新鶴見機関区に配属された後、
千葉機関区を経て昭和25年(1950)に北海道の北見機関区へ転属されました。
昭和47年(1972)から梅小路蒸気機関車館で展示された後、昭和54年(1979)に
全般検査を受けて昭和55年(1980)1月5日から山口線で団体列車を牽引し、
C57-1の予備機となりました。
昭和55年(1980)6月13日から6月15日に横浜港開港120周年記念事業として
横浜臨港線を走行し、昭和56年(1981)12月6日から12月12日には日豊本線
別府~豊肥本線三重町間において、「SL豊の国号」として運行されました。
しかし、国鉄末期の財政難やボイラー老朽化による故障の連続発生などの事情から
復活後最初の全般検査が実施されず、昭和59年(1984)1月3日の初詣列車牽引を最後に
SLやまぐち号牽引から引退しました。
昭和62年(1987)3月には車籍も失って静態保存機となり、現在はお召し列車牽引時を
想定した姿となっていますが、現役時代にはお召し列車を牽引した実績はありません。
C55形は鉄道省によりC51形の改良機として設計され、昭和10年(1935)から
昭和12年(1937)にかけて62両が製造されました。
昭和6年(1931)にC54形が設計されましたが、ボイラー圧力の高圧化と
過度の軽量化に起因し空転を頻発するなど、乗務員からの不評が殺到し、
わずか17両で生産が打ち切られていました。
C55形はその失敗を教訓に、新しい技術を取り入れて設計・製造されました。
また、C55-63以降は、設計変更が多岐に渡ったことから、
C57形という新形式が付与されました。
スポーク動輪を持つ最後のパシフィック機(軸配置=2C1)では最後の形式となっています。
昭和11年(1936)に製造された21両は流線形デザインに変更されましたが、
運用面での効果は少なく、整備点検には手間がかかるなどの理由から
翌年からは元の姿に戻して22両が製造されました。
大分市の若草公園に静態保存されているC55-46は昭和12年(1937)に製造され、
戦後、小倉工場製の切り取り形除煙板(門デフ)に交換され、
昭和46年(1971)まで主に日豊本線で旅客列車に使用されていました。
1070形は、イギリスのニールソン(ネルソン)社で製造され、明治34年(1901)に
官設鉄道が輸入したテンダー式蒸気機関車を、大正14年(1925)から
昭和3年(1928)にかけてタンク式蒸気機関車に改造されたものです。
東海道線の全通にともなって必要となる幹線用蒸気機関車として輸入された
D9形651号機で、後に6280形6289号機と改称されました。
1070型1080号機は、大正15年(1926)に支線の小運転や入換に適するよう、
従軸を1軸追加して、側水槽および炭庫・背水槽を増設し、4-4-2 (2B1) 型タンク機関車に
改造され、岐阜県の美濃太田機関区に配属されていました。
昭和14年(1939)に新潟県の日鉄鉱業赤谷鉱業所に払い下げられて
鉄鉱石の輸送などに使用されていました。
B20形は国鉄の前身である運輸通信省(後の運輸省)が第二次世界大戦末期から
終戦直後にかけて少数を製造した、主として入換作業用の小型タンク式蒸気機関車です。
昭和19年(1944)から昭和22年(1947)にかけて15両が製造されました。
B20形10号機は昭和21年(1946)に製造され、姫路機関区から鹿児島機関区に配属され、
国鉄蒸気機関車全廃まで使用されました。
昭和23年(1948)1月から7月までは大和鉄道(近鉄田原本線の前身)に貸し出されていました。
昭和47年(1972)に梅小路蒸気機関車館に収められ、平成14年(2002)には、
梅小路蒸気機関車館の開館30周年記念事業の一環とJR西日本発足15周年を祈念して
動態復元されました。
右側のC62形は昭和23年(1948)から昭和24年(1949)にかけて
D52形蒸気機関車の改造名義で49両が製造されました。
戦後、旅客需要の激増に対応するため、貨物需要が激減して余剰となっていた
D52形を改造名義でC62形が製造されることになりました。
C62形はC59形に代わる特別甲線での特急列車・急行列車の牽引を目的に
改造されたもので、東海道本線、山陽本線など主要幹線の優等列車牽引に使用されました。
C62-1は、昭和23年(1948)1月17日に製造された後、広島第二機関区に配属されました。
昭和25年(1950)8月23日に宮原機関区に転属し、東海道本線で
特急「つばめ」・「はと」などを牽引しました。
昭和32年(1957)7月10日に再び広島第二機関区に転属され、特急「かもめ」や
寝台特急「あさかぜ」・「さくら」などを中心に牽引し、
下関電化後も岩徳線直通など山陽本線列車の一部に充当されました。
昭和41年(1966)9月30日に急行「音戸」を牽引して広島~下関間を往復したのが
最後の運用となり、同年10月1日付で第一種休車となりました。
昭和51年(1976)3月に広島鉄道学園(国鉄職員の研修施設)敷地内で静態保存された後、
平成6年(1994)に梅小路蒸気機関車館に移され、
山陽本線で運用されていた本形式独特の改造を施されました。
左側のD51形は鉄道省により設計され、昭和11年(1936)から昭和20年(1945)にかけて
1,115両が製造されました。
その他に台湾総督府鉄道向けやサハリン州鉄道向けなど、製造総数は1,184両に及びました。
初期形(D51-1~85/91~100)は昭和11年(1936)から昭和12年(1937)に製造され、
ボイラー上の砂箱と煙突の間に給水加熱器をレール方向に置き、それらを覆う
長いキセ(着せ=覆い)持つことが特徴で、「ナメクジ」の愛称があります。
標準形は、初期型の欠点であった、重量配分の悪さから重量列車牽き出し時に
空転が多発する傾向があったのを、修正・改善され、昭和13年(1938)から
昭和18年(1943/一部昭和19年)に859両が製造されました。
昭和19年(1944)発注の戦時形は、ランボードやデフレクターなどに木材などの
代用材を多用、煙室前部上方と煙室扉上部の丸みの省略、ドームのカマボコ形化、
といった簡素化に加え、台枠を省略した船底形炭水車に変更するなど、
より一層の資材節約と工期短縮を図った戦時設計がなされました。
そのため、ボイラー爆発事故が発生し、戦後、これらの車両は、代用材使用部品の
正規部品への交換、X線検査で状態不良と判定されたボイラーの
新製交換などにより性能の標準化が行われました。
また、貨物需要の激減に対し、旅客重要の激増に対応するため、
機関車メーカー各社の大量の仕掛品在庫を改造名義で
C61形旅客用機関車が33両製造されました。
C11形は鉄道省が昭和7年(1932)に設計した過熱式のタンク式蒸気機関車で、
昭和7年(1932)から昭和22年(1947)にかけて381両が製造されました。
昭和5年(1930)に製造されたC10形の軽量化を図り、動軸重を13t以下に抑えて
丙線以下の支線区への投入を目的に設計・製造されました。
C11-64は昭和10年(1935)に製造された2次形機で、アーチ管が取付けられ、
1次形では第2缶胴上にあった砂箱と蒸気ドームの位置が互いに入れ替わりました。
これにより、下り勾配で缶水が前方にいった場合に、
蒸気ドーム内に缶水が入る恐れが解消されました。
9600形は、鉄道院により大正2年(1913)から大正15年(1926)にかけて770両が製造された、
日本で初めての本格的な国産貨物列車牽引用のテンダー式蒸気機関車です。
大正2年(1913)3月に先行製作された軸配置2-8-0 (1D) 型の過熱式テンダー機関車、
初代9600形(9580形)の欠点を改良すべく設計され、2代目となります。
製造順に9600、9601、9602、・・・と符番されていきましたが、9700には既に9700形があり、
101番目は19601、201番目は29601のように万位で符番されるようになりました。
9600形9633号機は大正3年(1914)に製造され、甲府機関区や富山機関区に配属され、
昭和16年(1941)以降は北海道に転属されました。
C56形は鉄道省が製造した小型軽量テンダー式蒸気機関車で、タンク式の
C12形から水槽と炭庫をはずし、テンダー式に設計し直されました。
当時は簡易線には、転車台が設置されている箇所が少なく、逆機運転での
後方視界を確保するため、テンダーの炭庫側面を大きく欠き取られました。
昭和10年(1935)から昭和14年(1939)にかけて160両が製造され、
C56-160は昭和14年(1939)4月20日にC56形のラストナンバーとなりました。
戦前は津山機関区、戦後鹿児島機関区から横浜機関区を経て、昭和39年(1964)に
上諏訪機関区と移り、その後は小海線・飯山線・七尾線で運用されました。
日本で最も標高の高い小海線を牽引するC56形には「高原のポニー」の愛称が贈られました。
C56-160は昭和47年(1972)に七尾機関区から梅小路運転区へ移され、
国鉄時代ならびにJR時代初期は全国からの貸出依頼が多く、各地を走行しました。
平成7年(1995)8月19日に運転を開始した北陸本線米原~木ノ本間の
「SL北びわこ号」などで長らく活躍していましたが、平成30年(2018)5月27日を
もって引退し、D51-200による牽引に変更されました。
7100形は明治13年(1880)に北海道初の鉄道(官営幌内鉄道)の開業にあたり、
アメリカ合衆国から輸入された蒸気機関車です。
明治22年(1889)までに8両が輸入され、明治13年(1880)に輸入された1号機には
「義經(義経/よしつね)」2号機は「辨慶(弁慶/べんけい)」と命名されました。
明治42年(1909)に鉄道院の車両称号規程が制定され、7100形(7100~7107)に
改められたのですが、実際の番号と現車の製造番号の間の関係に相当の乱れが生じました。
1号機である「義經」号は東京に新設される鉄道博物館(のちの交通博物館)に
保存されることになりましたが、大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災により
東京入りできず、同機は黒磯駅構内の機関庫に10年以上も
保管(放置)されることとなりました。
昭和11年(1936)に7101は大宮工場(現在の大宮総合車両センター)で
「義經」として復元されることになりましたが、7101が「辨慶」、
7105が「義經」とする調査結果が判明し、「辨慶」として復元されました。
「辨慶」号は現在、さいたま市大宮区に開館した鉄道博物館で展示されています。
鉄道開通80周年である昭和27年(1952)に、記念事業の一環として鷹取工場で
「義經」が動態復元されました。
昭和57年(1982)に「みさき公園」で開催された「日本の鉄道博」で動態展示された後、
平成2年(1990)には大阪市で開催された「国際花と緑の博覧会」の
会場内でイベント列車として運転されました。
その後、大阪市港区の交通科学博物館に可動状態のまま
平成26年(2014)の閉館まで保存展示されました。
平成28年(2016)に新設の京都鉄道博物館に移され、
半年かけてボイラーなどを改修して10月11に復活運転されました。
建物横のトワイライトゾーンには、EF81-103を先頭にスシ24-1とスロネフ25-501を
連結したトワイライトエクスプレスが停車しています。
EF81形は国鉄が昭和43年(1968)から製造した交・直両用電気機関車で、
国鉄分割民営化後にも、JR貨物により(1989)から追加製造されました。
昭和54年(1979)までに156両が製造され、日本海縦貫線や常磐線をはじめ、
一部仕様を変更した車両が関門トンネル区間の特殊用途にも使用されました。
昭和62年(1987)の国鉄分割民営化では156両全機がJR東日本・JR西日本・JR九州の
各旅客会社とJR貨物に承継され、JR貨物では増大する輸送量に対応するため
平成元年(1989)から8両が新たに追加製造されました。
JR西日本へは16両が継承され、寝台特急「日本海」2往復、「つるぎ」1往復、
「トワイライトエクスプレス」の牽引に充当されていました。
しかし、「つるぎ」は平成6年(1994)12月改正で臨時化、平成8年(1996)12月で
完全廃止され、平成20年(2008)3月改正では「日本海」の減便によって、
2002年から2010年までに10両が廃車されました。
「トワイライトエクスプレス」の牽引には、昭和64年(1989)の同列車運転開始時点では
4両に専用機化改造が施工されていましたが、運転日数増加に伴い2両を追加し、
6両体制で運用されていました。
スシ24型は平成元年(1989)にサシ489-3・4及びサシ481-52を改造して3両が製造されました。
テーブルの片側を2人用に変更し、4人用を拡幅したため、
定員は40人から28人に減少しました。
スロネフ25形は平成元年(1989)及び平成3年(1991)に、オハネ25-87・89と
オハネフ25-44を改造して3両製造されました。
定員は6人で、スイートルーム1室とロイヤルルーム4室の5つの個室しかなく、
「トワイライトエクスプレス」で最も豪華な寝台客車でした。
EF65形は昭和40年(1965)から昭和54年(1979)にかけて、国鉄電気機関車史上最多の
308両が製造された、平坦路線向け直流用電気機関車です。
EF65形は貨物列車用として計画されましたが、ブルートレイン牽引用としても運用されました。
しかし、平成18年(2006)3月の「出雲」廃止をもって寝台特急での運用は無くなり、
平成20年(2008)3月の急行「銀河」廃止で定期旅客列車を牽引する運用は
すべて終了しました。
EF65-1は昭和40年(1965)に貨物列車牽引用として製造されました。
EF58形の初期形は、昭和21年(1946)から昭和23年(1948)にかけて31両が
製造されましたが、随所に代用部材や簡易構造が用いられ、
故障や事故が頻発したことから製造は中止されました。
当初は50両の製造が予定されていたため、半製品だった32号機から34号機は
設計変更して、貨物用機関車のEF18形電気機関車として就役しました。
しかし、EF18形は昭和54年(1979)に全て廃車・解体廃棄されました。
改良型として昭和27年(1952)から昭和33年(1958)にかけて35号機から
175号機までの141両が製造されました。
また、1号機から31号機は初期型の台車・一部機器を流用して、昭和28年(1953)から
昭和32年(1957)にかけて新造グループ同様の車体・性能に改造されました。
昭和31年(1956)に東海道本線全線の電化が完成すると、蒸気機関車に替り特急や急行、
普通列車の牽引に運用されました。
しかし、昭和33年(1958)に151系電車の「こだま」が登場すると、昭和35年(1960)以降、
EF58形はブルートレインの牽引に運用されるようになり、ぶどう色から
青に前面下部クリーム色に変更されていきました。
東海道・山陽本線や高崎・上越線、そして東北本線黒磯以南といった主要幹線において、
旅客列車牽引の主力として用いられましたが、昭和61年(1986)3月に紀勢本線の
定期列車を最後に引退となりました。

















