龍潭寺から西方向へバイクで20分弱走った所に谷性寺があります。
駐車場にバイクを停め、少し戻ると招福門があります。
道路の反対側には、桜が散り始めているのに梅は満開でした。
招福門を入った先に水車とその右後方に恵比須像が祀られています。
谷性寺は、播磨、但馬、丹波光、丹波寿の4七福神グループに、特別協賛寺院として
4府県7寺院を加えた35寺院によって構成されている宝の道七福神の
第1番札所となっています。
水車の背後に楽寿観音像が祀られています。
谷性寺は近畿楽寿観音三十三ヶ所霊場の第25番札所となっています。
楽寿観音霊場とは信仰・健康・観光の「三幸」を求め、
近畿北部の霊場地を巡る霊場会です。
楽寿観音からの景色はピンク色で「楽寿」の言葉を象徴しているように思えます。
谷性寺は3本の桜が寺を覆い、山門前の桜は満開を過ぎましたが、
3本の共演は美しさをより引き立てています。
山門
谷性寺は山号を清龍山(せいりょうざん)と号する真言宗大覚寺派の寺院です。
門を入った左側に明智光秀の首塚があります。
光秀の妻・煕子(ひろこ)や明智一族の墓は大津市の西教寺にあります。
光秀の本姓は源氏、清和源氏(摂津源氏)の家系で、美濃源氏土岐氏支流である
明智氏の出身で、朝廷より惟任(これとう)の姓を賜ったので惟任光秀とも称しました。
青年期、明智家は斎藤道三に仕えていましたが、弘治2年(1556)に、
道三・義龍(よしたつ)父子の争い(長良川の戦い)で義龍に明智城を攻められ
一族が離散したとされています。
その後、光秀は越前国の朝倉義景を頼り10年間仕え、若狭国守護の
武田義統(たけだ よしずみ/よしむね)の下へ逃れました。
永禄11年(1568)6月23日、足利義昭は武田義統が義昭の妹を正室に迎えていたことから、
武田義統に上洛して自分を征夷大将軍につけるよう要請しました。
信長の正室である濃姫は斎藤道三の娘で、光秀の叔母は斎藤道三の夫人であったとされ、
義昭は光秀を通じて要請しました。
光秀は義昭と信長の両属の家臣となり、永禄11年(1568)9月26日に
義昭の上洛に加わりました。
元亀2年(1571)9月12日の比叡山焼き討ちで、光秀は中心実行部隊として
武功を上げたのを機に信長の家臣として認められ、近江国の
滋賀郡(志賀郡:約5万石)を与えられました。
光秀は間もなく坂本城の築城にとりかかりました。
元亀4年(1573)2月、義昭が挙兵しますが、光秀は信長の直臣として参戦しました。
その後、義昭との講和交渉は決裂し、同年7月にまたも義昭が槇島城で挙兵しましたが、
義昭は降伏し追放され、室町幕府は事実上滅亡しました。
元亀4年(1573)に坂本城が完成し、居城としています。
天正3年(1575)7月に、朝廷より惟任(これとう)の姓賜り、従五位下日向守に任官を受け、
惟任日向守となりました。
天正3年(1575)に信長は光秀を総大将に丹波征討戦に乗り出すことになり、
光秀は黒井城を包囲したのですが、八上城主・波多野秀治が裏切り、
不意を突かれて敗走しました。
丹波国人は親義昭派で、以前は信長に従っていたましたが、義昭追放で敵に転じました。
天正4年(1576)11月7日には、正室の煕子が坂本城で病死しました。
天正5年(1577)雑賀攻めに従軍し、10月に信貴山城の戦いに参加して城を落とすと、
同月に丹波攻めを再開しました。
光秀は、まず亀山城を落として拠点とし、難敵となった八上城を包囲し続け、
その後も丹波攻めと各地への転戦を往復して繰り返しました。
天正6年(1578)4月29日には、毛利攻めを行う秀吉への援軍として播磨国へ派遣され、
6月に神吉城(かんきじょう)攻めに加わり、10月下旬には信長に背いた荒木村重を攻めて
有岡城の戦いに加わりました。
天正7年(1579)2月、包囲を続けていた八上城が落城し、8月9日には黒井城を落として
丹波国を平定し、細川藤孝と協力して丹後国も平定しました。
天正8年(1580)、光秀はこの功績で、信長からに丹波一国(約29万石)を加増され
計34万石を領し、更に本願寺戦で戦死した塙 直政(ばん なおまさ)の支配地の
南山城を与えられました。
光秀は亀山城・周山城を築城し、横山城を修築して「福智山城」に改名し、
黒井城を増築して家老の斎藤利三を入れ、福智山城には明智秀満を入れました。
また、丹後国の長岡(細川)藤孝、大和国の筒井順慶等の近畿地方の織田大名が
光秀の寄騎(よりき)として配属され、近江から山陰への盤石の体制を整えたか?
のように見えました。
天正10年(1582)6月2日午前4時頃、明智勢は本能寺を包囲すると、四方から攻め込み、
信長は近習の100人足らずと共に奮戦しましたが、寺に火を放ち自害しました。
その後、明智軍は二条御新造に攻め込み、信長の嫡男・信忠と従兄弟の斎藤利治、
応援に駆け付けた村井貞勝と息子の村井貞成、村井清次や信長の馬廻りたちを共に
討ち取りました。
光秀は京都を押えると坂本城へ入りますが、勢多城主の山岡景隆は瀬田橋と
居城を焼いて近江国甲賀郡に退転しました。
丹後の細川幽斎・忠興親子や大和の筒井順慶も光秀の誘いには応じませんでした。
羽柴秀吉は本能寺の変を知り急遽、毛利氏と和睦して中国地方から引き返してきました。
光秀は6月13日(7月2日)天王山の麓の山崎に陣を築き、迎え撃ちます。
羽柴軍約2万7千(諸説あり)、明智軍約1万7千(諸説あり)と羽柴軍が優勢で、
羽柴軍の攻撃を受けると光秀は勝龍寺城への退却を余儀なくされました。
その日の深夜、光秀は勝竜寺城を密かに脱出して居城坂本城を目指して落ち延びる途中、
小栗栖の藪(京都市伏見区、現在は「明智藪」と呼ばれる)で土民の落ち武者狩りに遭い、
そこで竹槍に刺されて絶命したとも、何とか逃れたものの力尽きて家臣の介錯により
自刃したとも伝えられています。
光秀の死後に谷性寺に墓碑が建てられ、江戸時代の安政2年(1855)に
現在の首塚が建立されました。
正面の本堂には、左右に仁王像が安置されています。
本尊は光秀が崇敬していたとされる不動明王で、両脇には阿弥陀如来、
大日如来などが安置されています。
5月3日に行われる第47回・亀岡 光秀まつりのポスターが貼られていました。
この日、谷性寺では光秀の追善供養が行われます。
本堂の左側に鎮守社があります。
境内の南西隅に鐘楼があります。
本堂の前には池があり、対岸には不動明王の石像が祀られています。
池の畔には親子らしき3匹の狸が微笑んでいるように見え、
背後にはシャクナゲが咲いていました。
本堂の西側にある門には「明智門」との伝承が残されています。
かって、西願寺にありましたが、西願寺が荒廃して門と塀のみが残される
状態となったため、昭和51年(1976)に谷性寺に寄贈されました。
門の内側の両側の蟇股には明智家の家紋である桔梗が彫刻されています。
門の南側に建つ七重石塔は光秀顕彰のために建立されました。
明智門から下ると、休憩所があり、しばらく桜を独り占めしました。
谷性寺は「桔梗寺」とも呼ばれ、6月~7月には境内の他、
寺前の「桔梗の里」で花が楽しめるそうです。
谷性寺の西側に隣接して篠葉神社(しのはじんじゃ)があります。
平安時代の延喜年間(902~926)に清和天皇の第六皇子である
貞純親王(さだずみしんのう)によって創建されました。
天正年間(1573~1591)に明智光秀による丹波平定の際に兵火を受け焼失しました。
承応2年(1653)に氏子により再建されましたが、
当時は「楽々葉大明神御社」と呼ばれていました。
享保年間(1716~1735)に伏見宮邦家親王から「篠葉神社」の書を賜り、
明治3年(1870)に篠葉神社に改称されました。
拝殿
本殿
祭神として彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、大山祇神(おおやまつみのかみ)、
野椎神(のづちのかみ)の三柱が祀られています。
彦火火出見尊は父を瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、
母は大山祇神の娘・木花開耶姫(このはなさくやひめ)で第2子として誕生しました。
神武天皇の祖父とされ、山幸彦として知られています。
大山祇神は、伊邪那岐命と伊邪那美命との間に生まれ、
野椎神との間に4対8柱の神を生みました。
野椎神は『日本書紀』に見える草祖草野姫(くさのおやかやのひめ)別名で、
「野の精霊」という意味を持っています。
出雲大神宮へ向かいます。
続く























