現在の本能寺は寺町通を御池通から南へ進んだ東側にあります。
山号は無く法華宗本門流の大本山です。

 

日隆(にちりゅう:1385年~1464)は応永9年(1402)に妙本寺(現在の妙顕寺

4世・日霽(にっせい)に師事して修学していましたが、5世・月明と対立し妙本寺を

退出して応永22年(1415)に本応寺を創建し、本門法華宗・法華宗本門流の祖とされています。
応永5年(1418)に本応寺は月明により破却され、永享元年(1429)に

大檀那・小袖屋宗句(山本宗句)の援助により、千本極楽付近の内野(大内裏跡)に

本応寺が再建されました。
永享5年(1433)には檀那・如意王丸なる人物から六角大宮の西、四条坊門の北に

土地の寄進を受け再建し、寺号は「本能寺」と改められました。
室町時代、本能寺は足利氏の保護を受けて栄え、広大な敷地と多数の子院を有していました。
応仁の乱後、京都復興に尽力した町衆は、大半が法華宗門徒で、

法華宗の信仰が浸透し「題目の巷」と呼ばれ、本能寺は繁栄を極めました。
天文5年(1536)の天文法華の乱で延暦寺の僧兵により攻撃を受けますが、

本能寺も2万の兵で応戦しました。
しかし、堂宇はことごとく焼き討ちされ、堺の顕本寺に避難しました。
天文11年(1542)、第105代・後奈良天皇の論旨により帰洛が許され、天文14年(1545)には

伏見宮第5代・邦高親王の子である日承上人が入寺して、本能寺8世となりました。
日承上人は現在の堀川高校の東側、「本能寺町」「元本能寺」などの町名が残されている

東西150m、南北300mの敷地に本能寺を再建しました。
七堂伽藍が建立され、寺には堀と土塁が築かれ、30余院の子院を擁して

城郭構造を有していました。
地方への布教も進み、日承の時代には末寺が畿内、北陸、瀬戸内沿岸諸国さらに

種子島まで広布し、本能寺を頂点とする本門流教団が成立しました。
本能寺は、種子島に布教していたことから、早くから鉄砲・火薬の情報を得、

戦国大名との深い関係を築きました。
織田信長は日承上人に帰依し、上洛時には本能寺を宿所としていました。
天正10年(1582)5月17日、安土城の織田信長の元へ、備中高松城攻囲中の羽柴秀吉から

毛利輝元・小早川隆景・吉川元春の後詰が現れたので応援を要請するという旨の

手紙が届きました。
そこで、信長は明智光秀に出陣の命を下し、光秀は急遽17日中に居城・坂本城に戻り、

出陣の準備を始めました。
天正10年(1582)5月26日、光秀は亀岡城へ移り、愛宕山に登って愛宕権現に参拝し、

その日は参籠(宿泊)しました。
天正10年(1582)5月28日(24日説もあり)、光秀は威徳院西坊で連歌の会

愛宕百韻)を催し、28日中に亀山に帰城しました。
天正10年(1582)5月29日、信長は供廻りを連れずに小姓衆のみを率いて上洛し、

本能寺へ入りました。
天正10年(1582)6月1日、光秀は1万3,000人の手勢を率いて丹波亀山城を出陣し、

篠村八幡宮で軍議を開いたとされています。
光秀は軍を東へ向かわせ、老ノ坂峠を越えて沓掛で休息しました。
天正10年(1582)6月2日午前4時頃、明智勢は本能寺を完全に包囲し終えました。
明智勢に四方から攻め込まれた信長は、応戦しましたが負傷し、殿中の奥深くに篭り、

内側から納戸を締めて切腹し、本能寺の大伽藍は灰燼に帰しました。

天正15年(1587)、旧地に本能寺が再建されましたが、天正19年(1591)に

豊臣秀吉の命により現在地へと移転させられました。
現在の御池通と京都市役所を含む広大な敷地を有し、元和元年(1615)には

江戸幕府から朱印地40石を与えられました。
寛永10年(1633)の『本能寺末寺帳』によれば末寺92を数える大寺院となり、

洛中の法華宗の寺で最も栄えました。
天明8年(1788)の天明の大火で焼失した後、天保11年(1840)に再建されましたが、

元治元年(1864)の禁門の変に伴い発生したどんどん焼けにより、再び焼失しました。
明治の上知令により境内の大半を失い、昭和3年(1928)になって

現在の本堂が再建されました。

 

画像はありませんが、境内には信長公廟があります。
本能寺の変の際、明智勢は信長の遺体をしばらく探したが見つからりませんでした。
一説では阿弥陀寺の住職・玉誉清玉が僧20名と共に本能寺に駆けつけ、

裏側の生垣を破って寺内に入ったとされています。
墓の後ろの藪で10名あまりの武士が葉を集めて火をつけていたのを見つけました。
彼らは信長から遺骸を敵に奪われてないように指示され、火葬にして隠すところでした。
玉誉清玉は武士に代わって信長を荼毘に付し、遺灰を法衣に詰めて阿弥陀寺に

持ち帰り、塔頭の僧だけで葬儀をし、墓を作って葬りました。
後に織田信忠の遺骨も、二条御新造より拾い集め、信長の横に墓が築かれました。
しかし、阿弥陀寺は天正13年(1585)に寺町今出川上ルに移転した後、

延宝3年(1675)11月25日に大火あって、信長公の木像、武具・道具類などの

遺物は焼失しました。