金堂

かって、この地には天智天皇の長子・大友皇子(弘文天皇の称号を追号)の邸宅がありました。
天智天皇10年12月3日(672年1月7日)、天智天皇が崩御され、大友皇子が

後継者となりましたが、天智天皇の実弟である大海人皇子(後の天武天皇)が

地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえし、壬申の乱が勃発しました。
干支で壬申(じんしん、みずのえさる)にあたることが名称の由来となっています。
壬申の乱で大友皇子は敗北し、長等山で自害しました。
大友皇子の皇子・大友与多王(よたのおおきみ)は、父の菩提を弔うため自らの

「田園城邑(じょうゆう=田畑屋敷)」を投げ打って寺の建立を発願し、天武天皇から

「園城寺(おんじょうじ)」の勅額を賜ったのが園城寺の始まりとされています。

 

貞観年間(859~877)になって智証大師円珍は、 園城寺を天台別院として中興し、

東大寺・興福寺・延暦寺と共に「本朝四箇大寺(しかたいじ)」の一つに

数えられるようになりました。
円珍の没後、円珍門流と慈覚大師円仁門流の対立が激化し、正暦4年(993)、

円珍門下は比叡山を下り一斉に三井寺に入ります。
この時から延暦寺を山門、三井寺を寺門と称し天台宗は二分されました。
その後、両派の対立や源平の争乱、南北朝の争乱等による焼き討ちなど

幾多の法難に遭遇しました。

 

文禄4年(1595)、原因は定かではありませんが、三井寺は豊臣秀吉の怒りに触れ、

闕所(けっしょ=寺領の没収、事実上の廃寺)を命じられました。
堂塔は破壊され、当時の金堂は比叡山に移され、延暦寺転法輪堂(釈迦堂)として現存し、

延暦寺に残る最古の建物となっています。
本尊や宝物は他所へ移され、寺領も没収されました。
慶長3年(1598)、死期が迫った秀吉は三井寺の再興を許し、

境内に残る多くの建物はその後再建されたものです。
現在の金堂は慶長4年(1599)に豊臣秀吉の正室・北政所によって再建されたもので、

国宝に指定されています。

 

本尊は弥勒菩薩で、寺伝では中国天台宗の高祖・慧思(えし)禅師が修行されている時に

降臨された弥勒仏が、自らの分身として残された三寸二分(9.7cm)の御像であるといい、

この御像はつねに光を放ち全身が温かく「生けるがごとし」霊仏であったと伝えられてます。
この霊仏が百済に伝わり、用明天皇の時に日本に渡来して、天武天皇から

三井寺創建の際に賜ったと伝えられています。
幾多の法難から守りぬかれた本尊は絶対秘仏として公開されることはありません。

金堂前の石灯籠は「園城寺金堂無名指燈籠」と称され、大化の改新で蘇我氏を滅ぼした

天智天皇が、その罪障消滅のため、自らの左薬指をこの燈籠の台座下に納めたと伝わります。

金堂の左奥には慶長5年(1600)に建立された閼伽井屋があり、

国の重要文化財に指定されています。
画像はありませんが、金堂側の正面に江戸時代の名手・左甚五郎作の

龍の彫り物が施されています。

閼伽井は三井寺と呼ばれる由縁にもなっています。
この井戸の水は、天智・天武・持統の三帝の産湯に用いられたことから

「御井の寺」と称されました。
貞観元年(859)、円珍が園城寺長史に就任した後、井水を厳義・三部灌頂の

法義に用いたことから「三井寺」と改めた伝えられています。
また、この泉に九頭一身の龍神が住んでおり、年に十日、夜丑の刻に姿を現わし、

金の御器によって水花を金堂弥勒に供えるので、その日は泉のそばに参ると

「罰あり、とがあり」といわれ、何人も近づくことが禁じられていたという伝承が残されています。

閼伽井屋の背後には、日本最古とされる石庭があり、「閼伽井石庭」と称されています。
東海中にあって仙人が住み、不老不死の霊山と考えられている蓬莱山が形取られています。
中央より人、神仏、鶴、亀と配されているそうですが、正直にはその判別がつきません。

金堂の右後方に教待堂があります。
教待和尚は智証大師入山まで当寺を護持していた不思議な老僧で、

大師を迎えるとともに、石窟に入り姿を隠したといいます。
 後に大師はこの石窟上に一宇を建て廟としました。
この石窟は今も和尚像を安置する須弥壇の真下にあり、昔から三井寺で僧が出家の際、

その落髪を窟内に納める伝統が残っています。

教待堂の付近には、前方右に金剛界、左に胎蔵界の大日如来像、

その奥に智証大師・円珍の石像が祀られています。

教待堂の前方には慶長7年(1602)に建立された鐘楼があり、

国の重要文化財に指定されています。
屋根は近年まで瓦葺でしたが、修理の際、建立当初は檜皮葺であったことが判明し、

現在は檜皮葺に改められています。

現在の梵鐘は「弁慶の引き摺り鐘」に次ぐ二代目で、鐘楼と同じ

慶長7年(1602)に鋳造されたもので、滋賀県の文化財に指定されています。
鐘の高さは205cm、直径は123.6cm、重さは2,250kgあり、

「近江八景」の一つ「三井の晩鐘」として知られています。
また、日本三名鐘の一つで「音の三井寺」と呼ばれ、

「日本の音風景100選」にも選定されています。

三井の鐘には龍にまつわる以下のような伝承が残されています。
『琵琶湖で漁をしている若者が、ある日、子供たちがいじめていた蛇を助けました。
その夜、一人の娘が訪れ、やがて二人は夫婦となり、子供を身ごもりました。
出産が近付くと妻は「けっして見ないでください」と言い残し、産小屋に入りました。
しかし、心配になった若者が中を覗くと、大蛇がとぐろ巻いて赤子を取り巻いていました。
正体を知られてしまった妻は「玉」をしっかりと握りしめた赤子を残して

琵琶湖へと姿を隠しました。
赤子は「玉」なめてすくすくと育ちましたが、噂を聞きつけた領主に

「玉」を取り上げられてしまいました。
若者が困り果てていると、琵琶湖から龍が現れ、「私はあの日助けていただいた蛇です。
あの玉は子供が無事に育つようにと私の眼玉を与えたものです。
もう片方の眼玉を差し上げますが、盲目となってしまいますので、三井寺の鐘を

毎日撞いて子供の無事を知らせてください。
年の暮れには一年が過ぎたことがわかるように、できるだけ多く鐘を撞いてください。
お返しに人々に幸運を授けましょう」と言い残し、若者に「玉」を渡して琵琶湖に消えました。』
以来、三井寺では龍神に聞こえるように毎夕、入相の鐘(晩鐘)を撞き、

除夜の鐘では龍神に灯明を献じ、龍の目玉に因んだ「目玉餅」を供え、

百八に限らずできるだけ多くの人に鐘を撞いてもらうようになりました。

 

この絵は三橋節子画伯によるもので、滋賀県に伝わる民話を題材として

作品を残されています。
昭和48年(1973)に利き手の右手を鎖骨の癌により手術で切断されましたが、

その後は左手で創作を続け、癌の転移により35歳で亡くなりました。
近松寺(ごんしょうじ)の近くに三橋節子美術館があり、絵葉書を購入して撮影したものです。

金堂の前に聳える天狗杉は、大津市の天然記念物に指定されています。
地上間もない所で二股に分かれ、主幹の先に近い所では数度の落雷により

枯れた状態となっていますが、他は健全で全体的には端正な樹勢が保たれています。
寺伝では樹齢千年とされ、残された伝説から「天狗杉」と呼ばれています。
室町時代の初め、相模坊道了という僧が勧学院書院で密教の修行を行っていました。
ある夜、突如として天狗となり書院の窓から飛び出し、この杉の上に止まり、

やがて朝になると東の空に向かって飛び去りました。
道了ははるか小田原(神奈川県)まで飛び、

降りたところが大雄山最乗寺であったとされています。
道了は五百人力とされ、験徳著しく村人から慕われ、最乗寺の道了尊堂に祀られています。
また、道了の修行していた勧学院には「天狗の間」があり、

いまも最乗寺では道了尊を偲び三井寺に参詣されています。

金堂の東側にある石段を下ります。

参道を仁王門の方へ下ると、小さな池の中に弁財天社があります。
社殿は天和3年(1683)に建立され、『金光明最勝王経』に説かれる

八臂弁財天が祀られています。
8本の手には、弓、矢、刀、矛(ほこ)、斧、長杵、鉄輪、羂索(けんさく・投げ縄)を持ち、

鎮護国家の戦神として姿をしています。
また、巧みに話す能力や知恵の神としての性格も有すると説かれています。

仁王門の手前の北側に、釈迦堂があり、国の重要文化財に指定されています。
この地にはかって、食堂がありましたが、文禄4年(1595)に豊臣秀吉により破却され、

室町時代に建立された建物が移築されました。
一説では元和9年(1623)に宮中から清涼殿が下賜され、移築されたとも伝わります。
江戸時代の文政年間(1818~1829)に唐波風の向拝が増築され、

現在は清涼寺式釈迦如来像を本尊とする釈迦堂となっています。
清涼寺式釈迦如来像とは、京都の清凉寺(通称=嵯峨釈迦堂)に安置されている

国宝の釈迦如来像を摸刻したものです。
東大寺の僧・奝然(ちょうねん)は、中国・宋に渡り古代インド・コーシャンビーの

国王・優填王(うでんおう)が、存世していた時の釈迦の姿を彫らせたとされる釈迦像

「優填王思慕像(うでんおうしぼぞう)」に出会いました。
釈迦37歳の姿とされ、インドから中国に渡っていました。
奝然はそれを精密に摸刻させたものを永延元年(987)に日本に持ち帰り、

長和5年(1016)に奝然の弟子・盛算(せいさん)によって清凉寺が創建され、

本尊として安置されました。
この清涼寺式釈迦如来像は全国で100躯近く摸刻されたそうです。

仁王門は室町時代の宝徳4年(1452)に建立されたもので、

国の重要文化財に指定されています。
元はこれから向かう湖南市石部町にある常楽寺の門でしたが、豊臣秀吉により

伏見へ移され、慶長6年(1601)に徳川家康により現在地に移築されました。
仁王門は三井寺中院の表門となります。
かって、三井寺は南院・中院・北院と分かれていましたが、明治9年(1876)に

合併され一院制となっています。
因みに南院は観音堂周辺、中院は金堂周辺、北院は現在の大津市役所や

大津市消防局の裏あたりになります。

 

画像はありませんが仁王像は仏師・運慶の作です。

仁王門の先を南へ進んだ所に行者堂があり、神変大菩薩(役行者)や

不動明王像が安置されています。

 

園城寺(三井寺)-その4(水観寺)に続く