長等神社から南へバイクで約5分走った所に長等公園がありますが、公園内の

通行ができないため、公園の入口にある三橋節子美術館の駐車場に入りました。
美術館の奥にある石段を上った所に近松寺(ごんしょうじ)があります。
かってこの地には微妙寺、尾蔵寺があり、

近松寺と合わせて三井寺三別所と呼ばれていました。
微妙寺は三井寺の境内に移り、尾蔵寺は廃寺となりましたが

近松寺は今もこの地に留まっています。
平安時代、この地で安然(あんねん:841~?)が修行し、入寂された地と伝わります。
安然は幼少の頃比叡山に入り、円仁の弟子となり、後に遍昭(へんじょう)僧正などから

顕密の秘法を受け、円仁、円珍の後を受けて天台密教を体系化し、

台密(たいみつ)を大成しました。
晩年を比叡山の五大院に住したので五大院先徳とも称されています。
延喜4年(904)、旧坊を改め、近松寺とされました。
近松寺は元禄2年(1689)頃から園城寺鎮守となった

関蟬丸神社(せきせみまるじんじゃ)を管理するようになりました。
関蟬丸神社は弘仁13年(822)に、京都と滋賀の境にある逢坂山に創祀されたと伝わります。
山上の上社には旅人の守護神である猿田彦命を祭神とし、

麓の下社には豊玉姫命が祀られていました。
平安時代中期に琵琶の名手・蝉丸(せみまる:生没年不詳)が移り住むようになり、

没後に上・下両社へ合祀されました。
合祀されたのは天慶9年(946)とも平安時代末とも伝わり、その後は音曲を始めとする

諸芸能を生業とする人々に厚く信仰されるようになりました。
諸国の説教者(歌舞音曲などを行う雑芸人)が興業を行うには関蟬丸神社の免許が

必要とされ、説教者たちは園城寺の権威を背景に諸国巡業を行いました。
江戸中期の歌舞伎狂言・浄瑠璃作者である近松門左衛門(1653~1725)は、

幼少の頃に京都に移り住み、二十歳になった寛文11年(1672)に近松寺へ訪れ、

3年間過ごしました。
近松の姓もこれに因んだと伝わります。
門左衛門書き下ろし処女作と言われている『世つぎ曾我』の成功を得て、

初めて近松門左衛門と名乗ったと伝わります。
近松門左衛門は蟬丸を題材として人形浄瑠璃の演目『蝉丸』も書き上げています。

現在の本堂は享保元年(1716)に再建され、

「高観音(たかかんのん)」の扁額が掲げられています。

本尊は千手観世音菩薩で、その両側には風神・雷神像及び

二十八部衆像が安置されています。
千手観音菩薩立像は鋳銅製で像高37cm、平安時代後期の作とされ、

大津市の文化財に指定されています。

本堂の右側に嘉永3年(1850)に再建された阿弥陀堂があり、

本堂とは渡り廊下で結ばれています。
渡り廊下の手前には地蔵菩薩像が祀られています。

阿弥陀堂には「善光寺」の扁額が掲げられ、

鎌倉時代作で鋳銅製の善光寺式阿弥陀三尊像が安置されています。

 

善光寺式阿弥陀三尊像は、中国・南北朝時代の金銅仏を源流に持つとされ、

日本最古の仏像と伝承される、信州善光寺の本尊を模した

一光三尊形式の阿弥陀如来像です。
中尊に阿弥陀如来、両脇侍に観音菩薩・勢至菩薩のいずれも立像の背後を、

大きな1枚の舟形光背に覆われていることから「一光三尊」と呼ばれています。

 

本堂と阿弥陀堂及び渡り廊下は大津市の文化財に指定されています。

阿弥陀堂の前には賓頭盧尊者像が安置されています。

 

画像はありませんが三橋節子美術館へ戻ります。
三井寺の梵鐘について調べていた時に偶然、三橋節子画伯の

「三井の晩鐘」の絵が目に留まりました。
そして、近松寺を調べていた時にこの美術館の存在を知りました。
本物の「三井の晩鐘」に出会えたことで、三井寺の梵鐘はこの絵と融合して

記憶に残されています。

再び長等神社まで戻り、神社から少し北へ進んだ所に三井寺南別所両願寺があり、

堅田の漁師・源兵衛の首が安置されているそうです。
室町時代の浄土真宗の僧・蓮如(れんにょ)は、長禄元年(1457)6月17日に

父・存如の死去に伴い本願寺第8代を継承しました。
この時代の本願寺は、佛光寺教団の興隆に対し、宗派の中心寺院としての格を失い、青蓮院の末寺にすぎませんでした。
蓮如は延暦寺への上納金を拒絶したため、寛正6年(1465)1月8日、

延暦寺は本願寺と蓮如を「仏敵」と認定し、翌1月9日と3月21日に延暦寺西塔の衆徒は

大谷本願寺を破却しました。
蓮如は近江を転々とした後、文正2年(1467)3月に本願寺を

延暦寺西塔の末寺とすることで事態は収束されました。
応仁3年(1469)には三井寺の庇護のもとに大津南別所に、長男の順如を住持として

顕証寺が建立され、宗祖・親鸞の真影(木像)が安置されました。
文明10年(1478)1月29日に山科に坊舎の造営を始め、文明15年(1483)8月22日に

山科本願寺が落成したのですが、三井寺は親鸞の真影の返却を拒みました。
三井寺は返却の条件として生首を2つを要求し、熱心な信徒であった

堅田の漁師・源右衛門と源兵衛の親子がこれに応じ、

源右衛門が源兵衛の首を差し出し、もう一つの首は自分の首だと訴えました。
三井寺は親子の信仰の篤さに心を打たれ、真影と源兵衛の首を返却したとされています。

南別所両願寺から北へ進んだ所に三尾神社があります。

車道を直進した所に三尾神社の駐車場があり、その中に拝殿(?)があります。

車道はその駐車場を迂回し、その先端に鳥居が建立されています。

神門の手前、石段下に手水舎があり、うさぎの口から水が流れ出ています。

本殿

三尾神社は太古の頃、伊弉諾尊が長等山の地主神として降臨されたのが始まりで、

その地は三井寺境内の勧学院の北側を山へと登って行った琴緒谷とされ、

影向石(ようごうせき)が残されています。
この谷を流れる清流に天人が舞い降り、琴や笛を奏で舞戯、歌詠し

神を慰めたとの伝承から「琴緒谷」と呼ばれています。
この神は常に赤・白・黒の三つの腰帯をつけておられ、その形は三つの尾をひくのに

似ていたので「三尾明神」と称されたと伝わります。
ある時その三つの腰帯が赤尾神・白尾神・黒尾神となられ、

それぞれ三ヶ所で出現されました。
最初の出現は赤尾神で、上の三尾(琴尾山 山上の祠)と称されましたが、

出現は太古、卯年の卯月卯日卯の刻、卯の方角から現れたというだけで詳細は不明です。
三尾神社の神紋「真向きうさぎ」はこの言い伝えによるもので、

うさぎは神使いとされています。

 

第二の出現は白尾神で、場所は現在の三尾神社(筒井の祠)とされて、

出現の時は大宝年間(701年~704年)の夏と伝わります。


第三の出現が黒尾神で鹿関の地でこの神のみが

神護景雲3年(769)3月14日の出現とされています。
三神とも御本体は一つで伊弉諾尊であり、上の三尾・中の三尾・下の三尾と称されていました。

 

三井寺を中興した智証大師円珍は、貞観元年(859)卯の年に三井寺の鎮守社として

琴緒谷に三尾神社を復興しました。
その後、室町時代の応永33年(1426)に足利将軍が現存の本社を再興し、

慶長年間(1596~1615)には晩年の豊臣秀吉が社殿の修復を行い、社領を寄進しました。
明治の神仏分離令により明治9年(1876)5月12日に、現在地に遷座され三神が合祀されました。
明治14年(1881)に郷社に列せられ、明治43年(1910)には県社に昇格しました。
平成26年(2014)10月に本殿は国の重要文化財に指定されました。

拝所前には夫婦うさぎの像が祀られています。
祭神の伊弉諾尊は天地開闢(かいびゃく)において、神世七代(かみのよななだい)の

最後に伊弉冉尊と共にこの世に出現された最初の夫婦神であり、

縁結びの神として霊験あらたかとされています。

本殿の左側に阪下・茂畑稲荷神社があります。

本殿の右側に日御前神社(ひのごぜんじんじゃ)があります。
天武天皇の皇子・大津皇子(おおつのみこ)も第三の姫宮である瓜生姫の創建とされ、

元は中保町に鎮座していましたが、明治44 (1911)に三尾神社境内に遷座され、

末社となりました。
子供の病気(夜泣き・かんのむし)、安産に霊験あらたかな姫宮信仰の神霊石があり、

この神霊石が朝瓜形をしているところから、参拝者は瓜に子供の名前を書いて

お供えをする風習ができました。

日御前神社の前方右側に手前から白山神社、天満宮、夷子神社があり、

白山神社は相殿に愛宕神社、夷子神社は相殿に白髭神社が祀られています。

三尾神社の北側に三井寺の総門があり、総門の先にも三井寺の入山受付があります。

三井寺の総門から北へ進んだ西側に江戸時代前期に建立された護法社の表門があり、

市の文化財に指定されています。

門の内側はイチョウの落葉で黄色の絨毯が敷かれたようになっていました。

表門をくぐった正面に放生池があり、池には享保10年(1735)に建立され、

市の文化財に指定されている石橋が架かっていますが、橋の通行は禁止されています。
千団子祭の日には放生池に亀の放生が行われ、子供の安産育成の祈願が行われます。

池を廻り込むと、橋の正面には寛政11年(1799)に建立された護法社の唐門があり、

市の文化財に指定されています。

唐門をくぐった正面に享保12年(1727)に建立された護法善神堂があり、

市の文化財に指定されています。
鬼子母神を祀ることから「鬼子母神堂」とも呼ばれ、毎年5月中旬の土・日に

千団子祭が行われることから「千団子社」とも呼ばれています。

鬼子母神は500人の子(一説では千人、1万人とも)の母であり、

これらの子を育てる栄養をとるため、人間の子を捕えて食べていたとされています。
画像は三橋節子画伯が描いた、神になる前の鬼子母の図です。

それを見かねた釈迦は、彼女が最も愛していた末子を

乞食(こつじき)に用いる鉢に隠しました。
鬼子母神は半狂乱となって子を探し、7日間世界中を駆け巡ったのですが見つからず、

釈迦に助けを求めました。
釈迦は、「多くの子を持ちながら一人を失っただけでお前はそれだけ嘆き悲しんでいる。

それなら、ただ一人の子を失う親の苦しみはいかほどであろうか。」と諭しました。
鬼子母神が教えを請うと、「戒を受け、人々をおびやかすのをやめなさい、

そうすればすぐに子に会えるだろう」と答えました。
釈迦は三宝に帰依して五戒を守り、施食によって飢えを満たすこと等を教え、

子を戻された鬼子母神は仏法の守護神となり、また、子供と安産の守り神となりました。
護法善神堂の堂内には重要文化財に指定されている鬼子母神像が安置され、

千団子祭の日に開扉されます。
また、当日は千の団子が千人の子の供養、ザクロが鬼子母神の供養として供えられます。
鬼子母神となってからは顔色が変わり、温和な表情で描かれています。

護法善神堂の北側に慶安4年(1651)に建立された護法社本地堂があり、

市の文化財に指定されています。
鬼子母神の本地仏である聖観音菩薩が祀られています。

護法社本地堂の前には享保12年(1727)に建立された財林坊の表門と門番所があり、

市の文化財に指定されています。
財林坊は護法社預坊(ごほうしゃあずかりぼう)として、江戸時代に行われた

護法社の大整備に際し、享保12年(1727)に建立されました。
預坊とは護法社を管理する僧侶の住坊で、客殿や庭園、庫裏などがあります。