丹波国分寺跡は出雲大神宮から南へバイクで10分足らず走った所にあり、
旧丹波国の中心地でした。
現在は田園風景が広がり、国の史跡に指定されている国分寺跡の広大な敷地の中に、
江戸時代に再建された山門、本堂、鐘楼が残されています。
国分寺は天平13年(741)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、
当時の日本の各国に建立を命じた寺院であり、国分僧寺(こくぶんそうじ)と
国分尼寺(こくぶんにじ)に分かれます。
正式名称は、国分僧寺が「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、
国分尼寺が「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」と称され、
僧寺には僧20人・尼寺には尼僧10人を置くことも定められました。
丹波国分尼寺跡もここより西約450mの所にありますが、今回は行くのを断念しました。
現在の国分寺跡の寺域は2町四方(約218m四方)で、昭和57年(1982)から
第10次の発掘調査が行われ、金堂・七重塔・中門・僧房・鐘楼等の遺構や、
鎮守社の八幡神社と見られる遺構が確認されています。
出土瓦から実際の創建は奈良時代末期と見られています。
国司の怠慢のために、多くの国分寺の造営は滞り、 天平19年(747)11月の
「国分寺造営督促の詔」により、造営体制を国司から郡司層に移行させるとともに、
完成させたら郡司の世襲を認めるなどの恩典が示されました。
これにより、ほとんどの国分寺で本格的造営が始まったとされ、
丹波国分寺もこの例によるものと思われます。
延長5年(927)の『延喜式』主税上では、丹波国の国分寺料として
稲4万束があてられた旨が記載されています。
また、平安時代の中期に丹波国分尼寺は廃絶し、
国分寺は平安時代末期頃に再建されたと見られています。
鎌倉時代に金堂が焼失してからは荒廃し、戦国時代の天正年間(1573~1592)に
明智光秀の丹波平定による兵火で焼失しました。
現在残されている建物は、江戸時代の安永3年(1774)に
護勇比丘(ごゆうびく)によって再建されたものです。
山門の左側で葉を茂らせているイヌマキは亀岡の名木に指定されています。
山門をくぐった右側にイチョウの木が聳えています。
銀杏が葉の上に結実することから「オハツキイチョウ」と呼ばれています。
イチョウは現生の裸子植物の中で最も起源が古く「生きている化石」ともいわれる、
地球上にたった一族一種の貴重な樹木で、亀岡市の天然記念物に指定され、
京都・自然200選に選定されています。
画像は福井県・高浜町にある杉森神社の「オハツキイチョウ」のもので、
杉森神社のものは国の天然記念物に指定されています。
また、国分寺跡のイチョウは乳房のように垂れ下がった気根があり、これに触れると
母乳の出が良くなると信仰され、「乳イチョウ」と呼ばれていました。
本堂は非公開ですが、格天井には四季折々の花鳥風月が描かれているそうです。
本尊は平安時代後期の薬師如来坐像で、国の重要文化財に指定されています。
後堀川上皇が北国の天変を心配して、この薬師如来に祈願したところ、
宮廷に米が降ったとの伝承が残され、「飯薬師(めしやくし)」とも呼ばれています。
本堂の右側には亀岡の名木に指定されている、
幹回り3.3m・樹高13mのカゴノキが聳えています。
天保年間(1831~1845)の文献にオハツキイチョウと共に描かれており、
樹齢は200年以上と思われます。
創建当時の伽藍配置図です。
現在の鐘楼は創建時と異なり、本堂の左側に建立されています。
鐘楼の南側には多数の石仏が祀られています。
山門から南へ約130mの竹藪の中に、即身成仏の行を行った護勇比丘の墓があります。
護勇比丘は宝永6年(1709)に八田笹尾村(現在の京丹波町)の庄屋・一谷家に生まれ、
出家して護勇と名乗りました。
諸国を行脚して浄財を集め、丹波国分寺を再興しました。
死を悟った護勇比丘は、現在、五輪塔が建つ所に生きながらに入り、
鉦(かね)を鳴らしながら読経を続けていたと伝わります。
鉦が鳴り止んだのを見届けた人々により、土がかけられ葬られました。
護勇比丘は天明7年(1788)に亡くなり、五輪塔は寛政11年(1799)に建立されました。
五輪塔の左前にある役行者の石像は山門前から移され、
基礎には「八田笹尾村 一谷氏 護勇春國」と刻まれています。
国分寺跡の東側、牛松山の中腹にある愛宕神社(元愛宕)へ向かいます。
続く











