地下鉄烏丸線「丸太町」駅で下車し、丸太町通を東へ進んだ所に
京都御苑の堺町御門があります。
文久3年8月18日(1863年9月30日)に起こった八月十八日の政変で、
長州藩は堺町御門警護の役を解任され、京都からの退去を勧告され、
失脚した公卿7名と共に長州へ下りました。(七卿落ち)
長州藩は失地回復を狙い、翌年6月の池田屋事件をきっかけに京都へ出兵、
7月に禁門の変で会津・薩摩らと戦火を交えることとなります。
久坂玄瑞率いる山崎の部隊が堺町御門から攻め入り、鷹司邸に立てこもりましたが、
屋敷に火を放たれ、逃げ場を失った久坂、寺島忠三郎ら長州藩士は自害して果てました。
間ノ町口まで戻り、間ノ町口から入った右側(東側)に
九条邸跡、左側(西側)に閑院宮邸跡(かんいんのみやていあと)があります。
その間を進んだ正面に宗像神社があります。
社伝によれば平安京遷都の翌年、延暦4年(795)に桓武天皇の命により藤原冬嗣が
筑紫(現在の福岡県)から勧請して、冬嗣の邸宅(小一条殿=こいちじょうでん)が
あった現在地に祀ったのが始まりとされています。
冬嗣の孫である藤原明子(ふじわら の あきらけいこ)は、文徳天皇が皇太子だったときに
入内して東宮御息所となり、嘉祥3年(850)3月19日に文徳天皇が即位した
直後の3月25日に第四皇子・惟仁親王(後の清和天皇)を出産しました。
藤原伊尹(ふじわら の これただ/これまさ)の娘・藤原懐子(ふじわら の かいし/ちかこ)は、
応和3年(963)頃、皇太子・憲平親王に入内、康保4年(967)に親王が冷泉天皇として
即位した翌年の安和元年(968年)に第一皇子・師貞(もろさだ)親王
(後の花山天皇)を出産しました。
花山法皇はこの地を御所とし、以来「花山院」と呼ばれるようになりました。
藤原家忠は天承元年(1131)に従一位左大臣に任ぜられ、
「花山院左大臣」と呼ばれ、花山院家の祖となりました。
以降、明治維新までは花山院家の邸宅がありました。
境内には「花山院邸跡」の石碑が建立されています。
鳥居をくぐった右側(東側)に花山稲荷神社があります。
社伝によれば関白・藤原忠平(880~949)の時代に伏見稲荷を勧請したとされています。
社殿は宝永5年(1708)や天明8年(1788)の大火でも類焼を免れ、
火伏の神としても信仰を集めました。
日本三大稲荷の一つとされ、西の日光と呼ばれる佐賀県の
祐徳稲荷神社(ゆうとくいなりじんじゃ)は、花山院萬子媛(まんこひめ)が
大名・鍋島家に嫁いだ際に祀った分霊で、「祐徳」は姫君の諡(おくりな)です。
社殿の右側にに聳える楠は樹齢600年ともいわれ、御苑内では最長老の楠とされています。
参道の左側(西側)に京都観光神社があります。
昭和44年(1969)11月1日に観光業者の発案で観光客の安全息災と業界の発展を
祈念して、道案内の神として猿田彦大神を勧請し創祀されました。
参道を進んだ右側の「豊栄(とよさか)の庭」は、平成28年(2016)9月11日に築庭されました。
「豊栄の庭」の背後にあるのは旧花山院邸の釣殿でしょうか?
参道の正面に宗像神社があります。
宗像神社は応仁の乱で焼失した後、再建されました。
現在の本殿は江戸時代の安政年間(1855~1860)に再建されたもので、
宗像三女神(多紀理比売命、多岐都比売命、市寸島比売命)を主祭神としています。
宗像三女神は天照大神の「歴代の天皇をお助けすると共に歴代の天皇から
篤いお祭りを受けられよ」との神勅を受け、宗像より朝鮮半島に向かう
古代海路であった海北道中の島々に降臨したとされています。
配祀神の倉稲魂命(うかのみたまのみこと)は藤原時平(871~909)が合祀し、
天石戸開神(あまのいわとわけのかみ)は藤原家忠によって合祀されました。
宗像神社の左前にある少将井神社は、かつて中京区の少将井・少将井御旅両町の
間にあった八坂神社の御旅所を遷祀したものとされています。
現在も祇園祭の後祭である7月24日には八坂神社から神職が参向し、
神饌を供進、祇園祭斎行の報告が行われます。
少将井神社の左側にある繁栄稲荷社には命婦(みょうぶ)稲荷神が祀られています。
藤原基経の身分がまだ低かった時、数人の童に捕まり杖で打たれている狐を見かけました。
基経がそれを乞い受けて解放すると、夢中にその狐が現れて、
「住む場所を賜れば火難などの災害を除く力になる」と誓ったので、
現鎮座地をあてがって宗像神の眷属としたとされています。
繁栄稲荷社の左側にある琴平神社には大物主神と崇徳天皇が祀られています。
讃岐丸亀藩主・京極高中(1754~1811)が、文化3年(1806年)10月10日に、
金刀比羅宮を勧請したとされています。
宗像神社を出て西へ進んだ所に下立売(しもだちうり)御門があります。
下立売御門を入った北側には梅が満開となっていました。
蛤御門までは梅林になっています。
出水口からは「出水の小川」が流れ、その付近には「出水の枝垂れ桜」が
既に花を咲かせていました。
出水口から入った北東角には白雲神社があります。
かって、この地には西園寺邸があり、
西園寺家の鎮守社として妙音弁財天が祀られていました。
鎌倉時代の元仁元年(1224)、藤原公経(ふじわら の きんつね)は
鹿苑寺(金閣寺)の辺りに北山殿を造営して西園寺妙音堂を建立し、
家名を西園寺と称しました。
後に一時赤八幡京極寺に遷座され、明和6年(1769)に西園寺邸が
御苑内に移るのに伴い、邸内に妙音堂が再建されました。
明治以降、西園寺家は東京に移り、屋敷は取り壊されましたが妙音堂は残されました。
明治11年(1878)、妙音堂は廃仏毀釈により廃祀の危機にありましたが、
地元有志の尽力により神仏混淆の作法を神式に改め、社号を白雲神社と称しました。
また、明治2年(1869)に西園寺公望(さいおんじ きんもち)はこの地に
私塾立命館を創設しました。
塾はそのあり方に不穏な空気を感じた京都府庁(太政官留守官)の差留命令により
1年弱で閉鎖されましたが、塾生だった中川小十郎は明治33年(1900)に
京都法政学校(後の立命館大学)を創設しました。
社殿の裏側には「薬師石」が祀られています。
「御所のへそ石」とも呼ばれ、この石を撫でた手で患部をさすると、
病気や怪我に効験があるとされています。
また、人の顔のようにも見えることから信仰の対象にもなったと伝わります。
末社の福寿稲荷神社は西園寺家の屋敷神として祀られていたとされています。
白雲神社の北側には西園寺邸跡の石碑が建っています。
西園寺邸跡西側の梅林です。
蛤御門は正式には「新在家御門(しんざいけごもん)」と呼ばれ、普段は閉じられていました。
江戸時代の大火で、閉ざされていた門が初めて開けられました。
「焼けて口開く蛤」になぞらえ、「蛤御門」の俗称で呼ばれるようになりました。
幕末の元治元年(1864)、この門の付近で長州藩と御所を護衛していた
会津・薩摩・桑名藩との間で激戦が繰り広げられました。
門には当時の弾痕らしき物も残されています。
かっての門は現在地よりも30mほど東の位置に建てられていましたが、
明治10年~16年(1877~1883)にかけて行われた大内保存及び
京都御苑整備事業によって現在地に移設されました。
京都御苑-その3(蛤御門~京都迎賓館)に続く

























