myストレス解消法(その63) ( ᐠ≗ᆽ≗ᐟ )



子供のころ、「露出狂」かと思うくらい、人前に出るのが好きだった。

ヴァイオリンのコンクールに出るのも好きだったし、イタリアの子供むけ音楽コンクールに参加させていただいたときは、飛行機に乗り合わせた見知らぬ外国人とも折り紙で遊んだりした。

英会話スクールの演劇でも主役ばっかりの「人前の演技」が好きな子供だった。

でも思春期から、「人付き合い」が苦手になり始めて、人前に出ると「感情コントロール」に悩んだりした。

もう自分でもだめかと思うくらい、「対人」に苦しんだ時期もあった。

そんな私に、「救い」を投げかけてくれたのが、「ダンス」だった。

昨年秋から、「対人」を改善したいと思い、マネをしたい女性やダンサーのビデオを集中して見た。

鏡の前の自分の姿も、ひたすら研究して、似合う表情とそのときの感情を探した。

そして10月末ごろ、ようやく、踊れるようになった。

「踊れる」というのは自分にとっても新鮮な驚きで、それからはほぼ毎日、休むことなく「ダンス」の練習を続けた。

そして、「新型コロナウイルス」の自宅待機期間を経て、ようやく7月ごろから、「いつもダンサーとしての意識や感覚を忘れずに振る舞うこと」を鍵として、「対人」に「自信」とちょっぴり「余裕」が出てきた。

「踊れること」は自分と家族だけが知る秘密で、誰にも「踊る姿」を見せたことはなかった。

踊るときは「練習」に集中したかったので、家のなかでもシャッターを下ろした暗い部屋で鏡に向かって練習していた。

でも、もうそろそろ、「ダンス」が「ひとりだけの秘密」の時代は「卒業」にしようかな。

「踊り」の練習のとき、わざわざ部屋のシャッターを下ろしたりは、もうしたくない。

誰も見てないと思うけど、もし誰が見てもいいように、思い切り踊りたい。

今の自分にとって、「踊れること」は、大きな支えだ。

「対人」ができなかった間は、「できないこと」「だめなこと」「自分には乗り越えられない壁」ばかり感じてしまう時期もあった。

でもいま、「ダンス」という「得意なこと」を見つけたおかげで、人前に出て「好かれる」自信や、子供時代のように少し「露出狂」なくらい「人前に出るのが好き」な自分が、ちょっぴり戻ってきた。

このちょっぴりの「自信」さえあれば、この先の人生も、きっと確かな足取りで、ポジティブシンキングに歩んでいける。

さあ、今日も、思い切り元気に踊ろう。

「Love Lies」のNormaniみたいに、窓辺で思い切り、踊ってみよう!

myストレス解消法(その62) (=^-ω-^=)



「自分にはできっこない」「またあの失敗を繰り返す」「疲れた」と思い込んでしまうときがある。

そんなとき、「いや、ほんとは、自分にはできる」「できるための訓練を積み重ねてきた、いまの自分ならできる」と思いかえしてみる。

そして、自分の目にはまぶしいほど「女らしい」人々、生身の女とも思えないほど「美しい」女性たちのことを想う。

彼女たちを見るときに、「ああ美しい」「オーラを感じる」と思って見る。

その、自分が見ている彼女たちの姿は、「演技している彼女」「踊っている彼女」「ポーズをとる彼女」「人目を意識した彼女」の姿だ。

つまり、「まぶしい」「美しい」と思って見る彼女が、「表現力」において美しいのか、それとも「目鼻立ちやスタイル」などの「容姿」において美しいのか、本当のところは、「区別」がついていない。

ふつうに感じよく上品なくらいの女性だったら、「人柄そのままだ」「育ちがいい」と思って見るのが自然だろう。

しかし、眩しいほどの美しさや輝きを放つ女性というのは、「人目を意識して」「表現している」ときの姿を見てそう思っているときが多い。

だからこそ、自分の「目鼻立ちやスタイル」あるいは「過去の失敗してきた人間関係」でもって、「自分にはできない」とあきらめてはいけない。

「お肌の美しさ」だけは女の基本だから「死守」するとして、そのほかの「オーラ」「色気」「美しさ」については、「表現力」と「服装や髪型」であるていど以上、補うことができるもの。

その「表現力」について、自分の「自信のもてる」方面は、最近は、「アマチュアダンサーとしての実力」だ。

自分のもてるすべての「力」のなかで、「ヴァイオリン」「ピアノ」「お琴」も比較的そうだが、「踊りによって音楽や感情を表現する」ことも、どんな場面でも、あるていどは必ず発揮できるようになってきた、落ち着いた「力」だ。

「アマチュアダンサーとしての実力」は自分で信じ切れるものなので、常に常に、「ダンサーとしての自負心を忘れずに振る舞う」ことさえ忘れなければ、自分の理想の美に近づくことができる。

だからこそ、あきらめてはいけない。

自分の憧れるものになることは、きっとできるから。

それに、結局のところ、こうも言える。

もっとも「美しい」と思える存在、もっとも「美しさ」に確信をもてる対象こそは、実は「自分自身」でしかない。

なぜならば、あの「眩しいくらい美しく見える女性」だって、

どこかに「欠点」や「弱点」は必ず、ある。

そして、その女性が「引き続き美しく輝けるか」とか、

その女性の「欠点」や「弱点」が「めだたなく」できるかといったことは、

「私の努力」ではなく、「その女性自身の努力」でしかないので、私には「自信」「確信」がもてない領域になってしまう。

一方、「自分自身」が美しくなっていけるかというのは、

結局のところ、自分自身の「意欲」しだいだから、

そこは、ある程度「コツ」さえいったんつかめれば、

常に「自信」「確信」がもてる領域になる。

だからこそ、「自分が美しくなる」ことだけに集中しているときこそ、

もっとも「自分が正しいと思える」「自分が輝いていると思える」瞬間だ。

「世界一の美人こそ自分」と思うことは、決して「間違い」ではない。

「自分自身の美人」こそは、「自分自身」が「責任」をもてる唯一の領域だということを、忘れずにいよう!
myストレス解消法(その61) ( =^・ェ・^=)



「競争心」は「もろ刃の剣」。

「自分を育てる起爆剤」ともなりうるし、

「円滑な人間関係」を妨げ「自分らしさ」を阻害するpoisonにもなりうる。

「競争心」の矛先によって「己の成長」は大きく変わってくる。

「自分に向いている方向」「必要とされる方向」に「競争心」をもつことが、「人生の成功」を握るカギ!

「受験」や「勉強」に「競争心」をもつことは、人生最初の「基盤」を作るための重要なカギ。

そして、その後の「社会生活」においては、「対人能力」や「チームワーク」なども重要な「力」となってくる。

「人あたりがいいこと」「人望があること」は社会において必要とされる大きな「力」だ。

そこで「人あたりがいい」ひとになるため、己に「できる」「伸びしろのある」方向を探す。

そして、「”女らしい”自己」を獲得し、「印象美人」「雰囲気美人」を目指すという、あらたな「目標」が生まれる。

たとえば、「美しさ」「女らしさ」「フェロモン」を強く感じさせる女性や、「人目をぐっと惹きつける」女性がいるとする。

その女性を見て「私はちがうから」「私にはゼッタイできないから」と思い込んで、目を背けてしまったら、もうそこで「おしまい」「行き止まり」だ。

でも、「あの人はあんなやりかたであんなに魅力的な”生き物”になっている」

「じゃあ私は(個性は違っても)どんな風にやればいいか”伸びしろ”を探してみよう」

そう思えるようになり、その方向に「競争心」を振り向ける。

そうすると、たとえば「踊り」「ジェスチャー」「指先の繊細な動き」「音楽や感情を身体で表現すること」が得意だとか、

これまで「知らなかった」あらたな自分の「伸びしろ」「素質」が目覚めてくる。

そして、あらたに見出した「自分らしさ」が自分でも気に入るようになってくる。

すると、「己を信じる力」「自信」がアップし、「人柄」も落ち着いてくる。

そして、これまで「できなかったこと」「できないと思い込んでいたこと」すべてが

「解決」方向に向かっていくのだ。

「”女らしい”方向の伸びしろ」へ振り向ける「競争心」は、

「人生の活力源」となり、新たな「自己」をはぐくみ、

人生の「プラスのスパイラル」を作り出し得るもの。

年齢は関係ない(”パリジェンヌ精神”で開き直ろう)!

今日からでいい。

「プラスのスパイラル」をいますぐ、スタートさせよう!