ブルース・リー50周忌 | 新・迷って、悩んで、でも笑ったりもして…。

新・迷って、悩んで、でも笑ったりもして…。

不惑の40代などと言うものの、40代になってから「踏んだり蹴ったり」、「弱り目に祟り目」な日々…。
あれから幾年過ぎ、日々の一喜一憂を好き勝手にほざいてる次第です。

50年前の今日…1973年7月20日、その直後に世界的名声を手に入れる男がそれを知ることなく世を去った。

ブルース・リー」である。

中国武術のカンフーを少年期より体得するも、喧嘩、ストリート・ファイトに明け暮れ、両親が香港からアメリカへと送った。

そのアメリカでカンフーを自分なりに精査していき「ジークンドー」と言う拳法を作り出すまでに至る反面、アクションスターとして俳優業にも邁進していった。

スーパーマンやバットマンなどの流れを組む「グリーン・ホーネット」で主役をアシストする空手の使い手としてテレビのブラウン管で人気を博すも、1960年代~70年代のアメリカでは人種差別は如実で、故郷の香港に戻り俳優業で成功していく。

「ドラゴン危機一髪」、「ドラゴン怒りの鉄拳」、「ドラゴンへの道」を香港で大ヒットさせ、続く「死亡遊戯」制作と同じ頃に遂にハリウッドから声がかかりアメリカ映画で初の主演作品となる「燃えよドラゴン」を制作。

無事クランクアップし、公開を待つ間に脳浮腫で死亡。

32歳の若さで鬼籍に入った。

 

自分が子供の頃、流行りましたよ!!

怪鳥音と言う「アチョーッ!」という声マネとヌンチャク振り回して、当時の男子はみんなブルース・リー気取り。

自分も率先してやっておりました。(笑)

先にも書きましたがアクションスターと言う部分だけでなく、武術家として「ジークンドー」と言う拳法を創生し、この影響を受けた人は多く、日本でもプロレスラーの初代タイガーマスクの佐山サトルはイギリスs武者修行時代で「サミー・リー」と言うリングネームでブルース・リー的な動きでメインイベンターまで登り着いた。

アイドルグループ「V6」の岡田准一は、「ジークンドー」道場に通い詰めインストラクター認定まで受けている。(余談だが彼がホストを務めた「明鏡止水」は面白かった!!)

 

せっかくなので、ブルース・リーの格闘シーンをコンパクトにまとめた映像をどうぞ。

これを観て「考えるな、感じろ!」(笑)

ブルース・リーよ永遠なれ。