新生「全日本プロレス」初両国国技館興行 その1 | 新・迷って、悩んで、でも笑ったりもして…。

新・迷って、悩んで、でも笑ったりもして…。

不惑の40代などと言うものの、40代になってから「踏んだり蹴ったり」、「弱り目に祟り目」な日々…。
あれから幾年過ぎ、日々の一喜一憂を好き勝手にほざいてる次第です。

先日、久々にプロレス観戦に行った。

1年ぶり、天龍引退試合以来のプロレス観戦であり、両国国技館である。

 

今回行ったのは「全日本プロレス」。

全日本プロレスは、故ジャイアント馬場が力道山亡き後に自らがエースであり社長となって立ち上げた古参団体。

同じ頃、アントニオ猪木も同様に「新日本プロレス」を立ち上げる。

その後、両者、両団体は長きに渡りライバル関係となった。

しかし、馬場の死去により大きく動く。

馬場から社長の座&エースの座を受け継いだ三沢光晴が重鎮馬場夫人と対立し、殆どの選手・スタッフとともに全日本プロレスを離脱し「プロレスリングノア」を立ち上げた。

全日本には、川田利明、渕正信、太陽ケアの3選手しか残らなかった。

しかし、ここに早くから全日本を飛び出した天龍源一郎と、加えて新日本プロレスのエース武藤敬司が新日本を退社し全日本プロレス入りを表明することになる。

ここから、武藤敬司が社長となり全日本プロレスを受け継ぐことになった。

しかし、武藤の頑張りもあったのだが、所属選手間での不祥事やプロレス不況期もあり、投資会社が全日本プロレスのオーナーとなり、武藤敬司は「W-1」を発足する。

ここから全日本は諏訪魔をエースに置き、曙やスシ等残留した選手に、かつてノアをリストラとなった秋山準らチーム「バーニング」の面々が出戻りとなり、新体制を取る。

しかし、会社の売り買い業者にプロレス興行が続けられる術も無く、秋山準が会社を受け継ぎ、新会社として現在の「全日本プロレス」を2014年夏にスタートさせた。

 

と、まあ長くなったが、秋山準選手が社長となって初めて両国国技館興行の大会となるのだ。

秋山、現在の全日本の意気込みが表されたてんこ盛りの11試合だったが、今回はそのメイン・イベントを記してみたい。

その栄えあるメインの座をまかされたカードは!

三冠ヘビー級選手権試合:王者・宮原健斗vs諏訪魔だった。

実は、諏訪魔がずっと三冠王者だったのだが怪我で離脱し王者返還。

このタイミングでチャンピオンとなったのがまだ20代の若き宮原選手だった。

佐々木健介・北斗晶夫妻の元で修行を積んだ若武者が伝統ある全日本プロレスのトップにいる。

そこへ怪我から復帰し、武藤去りし後のエースに抜擢された諏訪魔選手と、どちらの実力が上かはっきりさせる、というのがこの試合のテーマとなっていました。

まずは、この三冠ヘビー級チャンピオンベルト管理団体代表のドリー・ファンク・Jr.氏による選手権試合宣言が発される。

立会い人は小橋健太だ。

 

そしていざゴング!

実際並ぶとさすがに諏訪魔の身体の方が厚みがあるし、技の1つ1つは重く見える。

そのせいか、全くもって諏訪魔優勢の試合展開が序盤から展開される。

途中から王者宮原も反撃をするも、諏訪魔の技を受けるとまた勢いが止まってしまう。

そんな感じだ。

しかし、30分近くが見えた頃、なぜか宮原の決め技である相手の腕をロックしたまま滞空時間の長いジャーマン・スープレックスに沈む諏訪魔。

 

これで決着がつく。

ドリーから握手され、チャンピオンベルトを小橋が巻く。

 

試合後のマイクアピールでは若き王者らしいトークをしていたが、ちょっと試合内容に疑問が残る内容に映った。

それでも、若い選手には期待したいし、実際かつての新日本プロレスでは同じように託された棚橋選手や中邑選手が団体の顔にプロレス界の顔になったこともある。

宮原選手、諏訪魔選手が秋山全日本プロレスでどう成長していくのか?!

 

 

そんな久々のプロレス観戦後、訃報が…。

馬場、三沢時代に脇役レスラーとして人気だった永源遙氏が永眠されました。

永源選手と言えば、胸元にチョップやラリアットを食らうと唾が飛び出ると言う、不思議なパフォーマンスで会場を沸かしたのが有名。

これをロープ越しにやられると、永源選手のツバが客席に飛ぶということで、当時は前方席の観客は新聞持参でその唾をよけると言うのがお約束でした。

死因は心筋梗塞、享年70歳。

ご冥福をお祈り致します。

 

 

次回は、秋山全日本初両国大会から他の試合の感想など記してみたいと思います。