
一般開業日は、1914年(大正3年)12月20日で、今週土曜が100周年の日となるのだろうが、実はその2日前の12月18日が一般に先駆け、来賓を招いた開業記念式典で東京駅は初仕事デビューを飾ったのだった。
そう、まさしく100年前の今日!!
当時の模様が残っています。

100年前の今日かぁ~。(しみじみ)
ん?丸の内の街並みにあたるところは、川だった?堀だった?
さらに遡り竣工時(1910年?)の写真。

何にも無い場所だった。
そして、100年後の2014年12月18日の東京駅。



立派な建築物です!
元々は明治に入り文明開化~西洋化を急ぐ日本において譜代大名屋敷町だった丸の内を売って高額の金銭を得るために、当時の政府高官が三菱財閥社長・岩崎弥之助に“丸の内”全域を150万円(現在のおよそ57億円)で買い取って欲しいと懇願したところから東京駅の歴史が始まる。
鉄道が日本に登場してから、北の玄関は上野駅、南西の玄関は新橋駅で、この上野と新橋を繋ぐ計画が持ち上がりその中間に「中央停車場」というものを設ける計画が浮上し、これを丸の内に置くことになり、これこそが「東京駅」になるのだった。
しかし、このエリアは元来埋立地。
地盤が脆く、基礎工事からして大変な作業。
何本もの木柱を地下に埋めて、地盤強化から進めたそうです。
なんせ百年。
歴史を感じさせるものは多くあります。
実は5番・6番線ホームには開業時の支柱がまだ残っています。


緑色の柱の上は木製の飾りでだいぶ劣化が進んでいます。
また駅舎内外のレンガだけでも歴史を感じます。

そして悲劇も2度起きました。
大正10年、当時の首相原敬総理大臣が暗殺されたのが東京駅。

判りますか?
床にある小さな点と先に見える壁のプレート。


場所は、東京駅南口ドーム下の券売所前。
そして昭和25年にも。
第27代内閣総理大臣濱口雄幸首相が、現在の東海道新幹線乗り場口前で撃たれました。



東京駅と言えば起点。
なので、どのホームにも「0ポイント」のしるしがあるそうです。

話はちょっと逸れるが、私の場合東京主要駅だと「新宿駅」と「渋谷駅」が馴染み深いが、「東京駅」や「上野駅」というのは社会人になって出張があるときに使う駅というイメージが強い。
そんなところからして、「銀の鈴」

や、新幹線のイメージです。

でも「銀の鈴」は昔はもっと寸胴なフォルムで、駅の奥に無かったっけ?
さて、ここからは少し“モヤモヤスポット”を散策。
東京駅は大きいのでやはり判りにくい。
しかも、ここは1番線と2番線のホームが実は2箇所あるのです!
1つは中央線ホーム。

もう1つは地下の横須賀線ホーム。

場所も結構離れてるので、安心して2つ作っちゃったのだろうか?(笑)
そもそも東京駅は1番線から23番線まであるものの、上記のように1と2は各2つづつあり、11~13番線は存在しないのだ。
この辺りも判り難い要因だろう。
そして、先の地下にある横須賀線及び総武快速のホームは船の中なのです!
先に書いたように元々埋立地ということが関係しているのだと思うが、昭和47年にこのホームを建設した当時は地下35メートルだった水位が20メートル上昇し、ホームを基準にすると12メートルの高さに達した。
そこで、長さ約19.5メートル、重さ200キロの鋼鉄製の棒状のアンカー(いかり)70本をホーム直下の地中に打ち込み、ホームが浮上しないようにつなぎ止めているのです。
ね、船みたいなホームでしょ。
このホームの床ですが、下掲画像を見てください。

ホームタイルの色が違うのですが、これこそがアンカーを打ち込むために開けた穴たちの跡なのです。
また東京駅内に「丸の内坂」という名称を持つ坂があります。

上掲画像の左下に坂の名の入った碑があります。
これは歴史は浅く、東京駅の改札内中央地下通路を挟んだ一帯に商業スペース“グランスタ”(エキナカ)がある。
東京駅の丸の内赤レンガ駅舎の復元に合わせて、グランスタが丸の内側にも拡張し、2012年に傾斜のある通路に「丸の内坂」と名づけたとのこと。
東京駅の住所を自分の住所に出来ます!
これは、東京駅改札外の地下に「えきあど」という一見コインロッカーと同様な“私書箱”があります。

この私書箱の住所がもちろん東京駅と同じ“東京都千代田区丸の内1-9-1”となる。
この私書箱を持てば、東京駅と同じ住所を持つということになるのです。
ほかにも東京駅のトリビアとしては、霊安室がある、かつて3階部分に女子高が存在した、駅内ポストで投函すると東京駅外観スタンプで郵送してくれる、等々…、歴史がある分、色々なトリビアもあるのです。
さて、新装と言うか当初の姿に戻った「東京駅」で美しいものの1つといわれるが丸の内側にある北口と南口のドーム内の天井。


いや綺麗です、ホント。
東京駅は、2012年10月1日に現在の駅舎になりましたが、元々はこの形こそが本来の東京駅でした。
設計者の辰野金吾のこの3階建ての傑作は、関東大震災にも耐えるほど頑丈な建物でした。
自然の猛威に耐えたにもかかわらず、太平洋戦争中の東京大空襲では崩壊。
そのため、ドーム部分や屋根、3階部分を取り除き、新たな形に建て替えました。
下掲画像がその駅舎の模様です。

私自身、東京駅は画像の上にあるほうの駅舎しか見たことがありませんでした。(当たり前だけど)
こうなると駅全景を撮りたくなる。

いや、これはミニチュア模型。
駅舎を出て撮影。

3階部分の建て増しなので、よく見るとレンガの色に違いがある。

また屋根部の黒い板のスレートは、宮城県雄勝町で制作していたもの。
実は、2011年の2月に東京駅へ2万枚出荷する予定だったが行程が遅れていたため、3月末の送付とずれ込んだ。
そこへあの東日本大震災が起き、雄勝町も津波に流され大打撃を受けたが、その企業の倉庫があった場所に、倉庫も機材も無くなっていたが、泥の中から1万5千枚のスレートが見つかり、職員たちが汚れを1枚づつ洗っていると、ボランティアの人々が次々集まり、みんなで洗ったスレートが改めて東京駅に送られ、こうやって東京駅の屋根を飾っているのです。
ちなみにこの撮影場所は、東京駅丸の内南口斜め前の「KITTE」、元の東京中央郵便局舎ですね。
話が度々逸れるが、KITTE内は巨大な白いクリスマスツリーがそびえ立っていました。

この場所の真裏には、なんか派手な衣装が飾ってある…。


このての衣装は…、

やはり宝塚歌劇団。
こちらも、東京駅と同期の100年目。
日本郵便では記念切手を発行してのタイアップイベントのようです。
さて、丸の内側ばかり撮ってしまったので、逆側の八重洲口に行ってみましょう。

こちらもどんどん近代的な外観になっています。
白い屋根の部分及びその下の通路を「グランルーフ」と言うそうです。
八重洲口の八重洲はもはや有名ですが外国語が語源。
オランダの貿易家、航海士の“ヤン・ヨーステン”の和名:耶楊子(やようす)が由来。
徳川家康に可愛がられこの八重洲口にあたるエリアに家を与えられたことから来ている。
さてさて、グランルーフ。
夜はライトアップされます。


夜の丸の内側の東京駅もまたKITTEから撮影しておきましょう。


東京駅には、ホテルや展示ギャラリー、エキナカ店舗、地下のショッピング街などの施設もあり、単に「駅」だけでない使い方、楽しみ方もあります。
今週末の20日(土)、21日(日)にお出かけしてはいかがでしょう?
あ、そうそう!
年に一度だけ一般開放される「東京駅社員食堂」がこの20、21日も開放され、特別メニュー「懐かしの食堂車のカレー100周年版」が食べれるそうです。
滅多にない機会だと思いますよ。
PS)
私の散歩の写真を喜んで見て下さった、ブロ友にして、唯一のメル友であった、アメリカ在住のトーマス・ペンフィールドさんが去る12月14日に85歳にして天国へ旅立たれました。
このブログをトーマスさんに捧げます。
合掌